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猫丸ねずみの大荒れトーク


京都・摩訶不思議な町No.11 北野天満宮・天変地異を巻き起こしたのは道真なのか?



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画像Wikipediaより。



京都市 上京区にあります北野天満宮は、菅原道真を祀った神社です。

本殿、拝殿は国宝に指定され重要文化財を多数保有している神社でもあります。

日本史で習う「白紙(894)に戻そう遣唐使(けんとうし:日本から唐に派遣した外交使節のこと)」寛平6年(894)遺唐使廃止を唱えた人が祀られており、それが頭脳明晰で知られた菅原道真です。

頭脳明晰であったと伝えられた道真さんを祀る神社ですので、受験シーズンになる梅の花が咲く頃、ここは受験生でいっぱいになります。

しかし菅原道真は、祟徳天皇や平将門と並ぶ怨霊として恐れられる一人なのだとご存知でしたでしょうか。

菅原道真(すがわらのみちざね)は宇多天皇に仕え寛平の治を支えた1人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇進したのにも拘らず、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)に讒訴(ざんそ:虚偽の告訴)され、太宰府(だざいふ)へ、濡れ衣を着せられたまま左遷(させん)され、道真の子供達は流刑。太宰府で失意のうちに亡くなりました。

道真の死後、京の都に天変地異が多発したことから、道真が朝廷に祟りを為したとされ、天満天神として信仰の対象となった…とざっと、このような内容なのです。

政治の中心で活躍した道真が、政治から遠ざかったにも拘らず何故学問の神として祀られるようになったのでしょうか。

道真の波瀾万丈の人生を振り返ってみましょう。

学者の家に生まれ育った道真は、幼き頃より優秀で詩歌の才能までにも恵まれたといいます。

超難関試験に一発合格を果たし、人を教える立場になっていきます。その才能は学問に留まらず、行政官の国司としても活躍、宇多天皇の目に留まります。

真面目で勤勉だった道真は、宇多天皇が譲位し醍醐天皇の御代になっても道真は起用され続け、藤原氏のトップであった藤原時平に次ぐ右大臣にまで出世をしたのです。

そして2年後の57歳になった道真は、公卿(くげ)としては最高位となる従二位という官位まで授けられるほど出世をしました。

これほどまでの出世劇を周囲の人間たちは快く思うこともなく、やっかんでいたのでしょう。中でもライバルだった左大臣の時平は、何かと道真に因縁を吹っ掛けていたようです。互いに相容れぬ関係が続く中、901年に道真は、時平の陰謀で「謀反:むほん(反逆すること)の疑いがある」として無実の罪をかけられ、九州の太宰府に左遷されてしまいました。従二位という位を与えられて、たったの20日後であったそうです。

太宰府に流されることになっても国家の安泰を願い天拝山(てんぱいざん)という山に登り、天の神々にお願いしたそうです。この時に「天満大自在天」の称号を得たと言われています。そんな中、京都に戻れぬままその2年後に、失意の内に59歳で亡くなってしまいます。

道真の遺体は牛車に乗せられ太宰府の北東・三笠郡の辺りに運ばれましたが、遺体を運んでいた牛が急に動かなくなったそうです。その場所が「安楽寺」というお寺の前で、道真の弟子が仕方なくその場に埋めて祀ることにしたそうです。
これが九州にあります太宰府天満宮となるわけです。

道真の死後、道真を追いやった時平は政権を掌握(しょうあく)しました。

比叡山延暦寺の第13代座主(ざす:1番偉い僧侶)の法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)の目の前に道真の霊が現れて、「今から私を左遷に追いやった者たちへの報復の為に祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでください」と告げました。

これに困った法性房尊意は「天皇が直々に3回もお願いしにいらっしゃれば、応じない訳にはいきませんよ」と冷静に答えたそうです。

これを聞いた道真は、もっともだ…と返事に困っていた姿を見た法性房尊意は、怨霊となった道真の気持ちを鎮める為にザクロの実を道真に食べさせますが、道真は食べたザクロを炎にして吐き出し、自分の怒りをあらわにしたそうです。

ここからです。道真の本格的な復讐劇が始まったのです。

道真を左遷させる陰謀に加担した中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)は40歳で急死し、道真の左遷が決定した際に醍醐天皇(だいごてんのう)に直訴する為に駆け付けた宇多上皇(うだじょうこう)の行く手を阻んだ藤原菅根(ふじわらのすがね)は雷に打たれて死亡。

また、道真を左遷に追い込んだ張本人である藤原時平(ふじわらのときひら)の両耳からは、蛇に化けた道真が現れ、その蛇を退散させる為に祈祷させますが効果は一切なく、更に怒り狂った道真に「控えよ!」と一括された僧侶達の方が退散してしまい、その結果、道真の怒りの炎にまかれた時平は狂い死にしてしまいました。

貴族達の集団職務放棄を策謀した源光(みなもとのひかる)は、狩の最中、底なし沼に馬ごとハマり、遺体も上がらずそのまま行方知れずとなり、醍醐天皇の皇子の保明親王(やすあきらしんのう)は21歳の若さで急死。

更には、保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった保明親王の子供であった慶頼王(よしよりおう)が、たったの5歳で急死をしてしまうと災難が次々と起こったのだそうです。

更にその後も左遷に関わった関係者達が次々と亡くなり、時平の子供達も幼くして亡くなってしまったそうです。

左遷に加担した人々が次々と死に行く中、平安京は大火が続出し、水疱瘡が大流行。

平安京はみるみる間に死体が散乱していきます。

また、渇水や洪水、咳病と次々と天変地異が起こり、死体は山のように積み上げられたそうです。

左遷を手伝い陰謀に動いていた者は、さぞかし生きた心地はしなかったでしょう。

恐ろしい現実が起こる日々に恐怖ていたに違いありません。

ここで漸(ようや)く朝廷が動きます。道真の怨霊を鎮める為にと、道真を太宰府へ左遷するという命令に関係した全ての書類を焼き払い、道真の名誉回復を図り、右大臣の位に戻すだけではなく、官位も以前より高い正二位を贈りました。

その儀式を行う最中、書類を焼いていると、その火が周囲に燃え移り、その場にいた僧侶や役人数名が焼死するという事態がおきました。その後、京都だけではなく国内中に飢餓や干ばつが相次ぎ、京都も干ばつ被害が拡大、その為の対策会議を開いている最中(930年、6月午後1時頃)に、会議場であった清涼殿に落雷、大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)など、5人の貴族や女官数名が死傷するという事態にも見舞われ、これは道真の怨霊のせいだと恐れおののき「道真は雷神となって、この日本に神罰を与えようとしているに違いない」と噂され、朝廷をはじめ京の都は大パニックとなります。

地獄のような惨劇は、平安京を更なる恐怖のどん底に突き落とします。

この落雷事件発生を境に醍醐天皇は体調を崩してしまいます。

天皇の位を僅か八歳の皇太子寛明親王(ひろあきらしんのう)に譲り、朱雀天皇が即位し、譲位1週間後、醍醐天皇は46歳でこの世を去りました。

その後、時平の長男である藤原保忠(ふじわらのやすただ)も病に伏せ、僧侶に祈祷をさせている最中に、経の言葉の中に「宮毘羅大将:くびらたいしょう」という言葉を「我を縊る?(われをくびる)」と聞き違え、その場で狂い死にしてしまいます。

恐れおののいた結果、言葉を聞き違えて狂って死ぬとは、その恐れようが分かりますね。

その後も天変地異は続き、天慶の大地震(推定マグニチュード7)にも見舞われました。以来、大災害が起こる度に天神様と信仰して、道真の恨み鎮めを行ってきました。

そんな中、時平の弟で藤原忠平(ふじわらのただひら)だけは何事もありませんでした。忠平だけは、道真に励ましの手紙を書いて送っていたそうです。

彼だけは道真に祟られることはありませんでした。それどころか忠平はその後、摂政(せっしょう)関白となって、藤原北家を支える存在となるまでに出世し、怨霊騒ぎでライバル達が次々と亡くなり、何の心配もなく出世街道を歩けたようです。

優しさが仇となるのは、それが真実の優しさではなく心に邪心があるからでしょう。

日頃から心優しき善なる心は、やはり人の心に叶うものです。

もともと人間は自分勝手な生き物。なので敢えて優しい気持ちを持つくらいが丁度良いのかもしれません。

優しい気持ちが相手に届けば、忠平のように棚ぼたな人生となるような幸福に見舞われるというものです。

平安京は道真の怨念を恐れ、人々は夜は一歩も外へは出なかったそうです。

昼でも人の往来はまばらだったそうです。

話に尾ひれが付き、怖くて歩けなかったのでしょうね。

都で続いた天変地異に平安京の人々は「ああ 右流左死(うるさし)」と嘆いたといいます。

現代用語に置き換えてみますと、右流左死とは「うるさい」とか「やかましい」という意味ではありません。これは京都で続いた災いから耳を塞ぎたい、何も聞きたくないという、畏怖の気持が大きくあったのではと推測されます。

完璧すぎたオールマイティな才能を持った道真は、妬まれ陥れられた…。

いつの世も、人を羨み、人を憎み、人を呪い、人を陥れ、最悪殺害など…と人間の業は尽きませんね。

今だから、昔だからではなく、このような心情はいつの世も同じなのかもしれません。

今回のような祟り神のことを「御霊ごりょう」といいますが、有名どころでは早良親王(さわらしんのう)と藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、井上内親王(いのうえないしんのう)他戸親王(おさべしんのう)の親子が御霊として祀られております。

他にも御霊として祀られる方は結構いるようでして、この時代も生きて行くのが大変な時代だったように見受けられます。

京都には御霊を鎮める為に祀られた神社や寺院が多く存在し、中でも有名な神社が「上御霊神社」「下御霊神社」です。

道真の怨霊事件もすっかり影をひそめた12年後、西京七条二坊に住む貧しい家の娘で多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真の霊が現れ「私が生きてた頃、よく右近馬場という所に遊びに行きました。そこに行けば私の胸の内に燃えさかる恨みの炎は安らぎます。右近馬場に祠を建て私を祀ってください」と告げ消えたそうです。

文子は貧しく、祠を建てることは到底無理な話でした。
なので、取り敢えず自分の家の敷地内に祠を建て祀ることにしたそうです。

それから5年の月日が流れ、今度は近江の国(おうみのくに:滋賀県)の神社の息子の太郎丸にも文子と同様の道真からのお告げがあり、太郎丸の父親が右近馬場にある朝日寺の住職にお告げの件を相談したところ、文子の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、ここで漸(ようや)く道真を祀る社を建てることが叶ったそうです。

この話を知った、時の右大臣だった藤原師輔(ふじわらのもろすけ:忠平の息子)は、父である忠平を出世させてくれた恩恵を形で表すことにしたのでしょう。

その社を進んで増築し祀ったそうです。

それが現在の北野天満宮です。

当時の北野天満宮は御霊として祀られた訳でして、現在の学問、出世の神という訳ではありませんでした。

時代が流れ真実が流れてしまうと、都合の良い形の良い神様としてリサイクルされてしまうのです。

しかし、もともと道真は文章の大祖、風月の本主でありますから、学問の神として崇められてもおかしくない才能あるお方であることは間違いないと思います。

京都の神様はもともと人間が多いのです。

しかも祟りを鎮める為に神として祀る訳です。

生前の道真の幼少期は、肝試しでも恐れることもなく平気な性分だったようで豪胆な肝のすわった人物だったと伝えられています。

源氏物語の第一読者でもあると知られ、主人公の光源氏のモデルの一人なのではとも考えられているそうです。


さて、猫丸は北野天満宮へは、1度お伺いしております。

ここからは猫丸の独断と偏見と直感で感じたことをお話したいと思います。

歴史マニアな方はスルーでお願い致します。

やはり道真は歴史が伝えるように祟り神だったのでしょうか?

道真さんは伝説の通り賢いお方に感じます。占いでみても性格的にはオールマイティで何でもこなせる器用な方だったようです。道真さんのお若い頃は人見知りでナイーブだったようですが16歳頃からは、とても恋多き青年だったように感じます。恋文を沢山書いている風景が浮かびますもん。文才のある方の恋文ですょ、もらった方は胸キュンだったんじゃないでしょうか。多分、光源氏のモデルという逸話は真実のような気がします。恋文だけではなく、口説き文句も才能を発揮していたように思います。

優秀なので敵も作りましたが、先輩にも恵まれ、また後輩にも慕われた人徳のあるお方だったようです。男女共にかなりモテまくりの人気者だったように感じます。

物凄く好かれる方は、やはりその反面、妬みから物凄く嫌われるんでしょうね。道真さんは周りから愛されるタイプでしたが、時平さんはプライドの高い方。普段からニッコリ微笑むことのできない、寧ろ人を寄せ付けないタイプのように感じます。

当初は人から愛される道真さんを羨んだのでしょう。羨みながらも時平さんは道真さんを尊敬していたようにも感じます。

実際の後半の人生は2人は人目を忍んで仲良くしていたようにも感じるんですよねぇ…。

時平さんも道真さん同様にとても賢いお方でありましたが、それを遥かに上回る道真さんの天才・奇才ぶりに畏怖の念を抱き、自分を超える賢い道真さんを尊敬もしていたと感じます。なにせ、道真さんは、文学、歴史、儀式、宗教、祭祀、雑学、書道、武道、などなど、どの道をも極めた達人だったそうで、道が付くお名前は名前負けしておりません。

なのに…何故?こんなことになってしまったのでしょうか。

果たして歴史で言われている通りが真実なのでしょうか。

時平さんの側近の家柄重視の人間達が、時平さんに いちいち有る事無い事を真実を曲げて伝えていたのでしょう。そんな感覚がよぎります。

学者と武家との家柄の違いを嫌う、血統重視の人間によって策謀されたもののように感じます。道真さんのサクサクストーリー(サクセスストーリー)が気に入らなかっただけだと思うんですよね…単に。

しかも20〜40代の道真さんは、もっと軽い感じの明るいタイプでプレーボーイのような感じでしたから、古い気質の朝廷の雰囲気に似合わない道真さんを気に入らなかったのではないでしょうか。

歴史が正確に伝わらないのは今に始まったことではありません。

自分達の恥ずかしい記録を誰が残したいと思うでしょうか。

権力あるものは歴史を塗り替えて捏造することなど簡単なことでしょう…と猫丸は思いますけどね。

そして、道真さんは時平さんを恨んだとされておりますが、まぁ、最初の頃は時平さんのお若かったので反発心があったようですが、歳を重ねて行く中で時平さんの感情も良きものに変化しているように感じますし、道真さんもまた時平さんを元々嫌いではなかったですし、恨みの念は全く感じないんですよね。

時平さんも歴史で言われるような悪ではなかったとも感じます。

時平さんが策謀して左遷というこの形にも違和感を感じます。左遷というより、道真さんは本心は平安京を離れたかった…というような感じがします。行きたくて行った?みたいな…。どこでも良かったんですよ。でも寒がりだったので暖かい地域が良かったんじゃないのでしょうか。しかも、京都に帰りたいと願っていたということもなく、寧ろその反対で新たな地である太宰府で楽しく?というより忙しく?過ごしていたようにも感じますけどねぇ…。歴史とはまるで真逆に感じます。

本当に見てきた訳ではありませんので真実は判りませんが…。

あくまでポンポン浮かび上がる霊的直感です。

で、結局どうなのか…。

猫丸的結論は…平安京を揺るがした怨霊事件、周期的にみて太陽の磁極変化による天変地異だった可能性が高いと思われます。

チャンチャン…( ̄▽ ̄)

本当に怖いのは、その天変地異の周期がこれからの時代にやってきているということです。

真面目な話、既に2012年に太陽の磁極は2極から4極に変化しています。これは国立天文台が2012年に発表しております。

また2013年には「太陽の磁場変異の進行」を確認し、この状態が「小氷河期」と酷似していることも発表しております。

2012年頃から、地球は記録的といわれる災害が多発するようになり、年々記録は更新されつつある訳です。

まぁ、そういうことです。(どういうことなの?)

科学的根拠は少ないものの、太陽の活動が弱まっていることだけは確かなことです。

そして、太陽の活動が弱まることで起こり得る天変地異の現象が、ちょうど道真さんの時代にもあったと思うのです。天変地異で揺れる人々の心の不安が菅原道真の怨霊に重なっただけのように思えます。

道真さんの時代、中米のマヤ文明も乾燥化で崩壊しています。

前回の小氷河期だった16世紀後半から〜17中世では、魔女狩りの時代。日本では戦国時代という動乱期。西洋では天変地異による民族大移動がありました。

これからの時代、内陸部は乾燥し、海岸部は洪水が増すとも予測もされています。

森林が崩壊している地域は干ばつが予測されています。

火山噴火や巨大地震も小氷河期には多い事例です。


怨霊よりも、これが1番に怖い現実だと思います。





ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-01-30 17:05 | 不思議 心霊

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