上御料神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社で、下御料神社と対応するもので、現在の正式名は「御霊神社」としているそうです。
Wikipediaより。
この上御料神社の境内では、よく写真撮影が行われております。
最近京都では、結婚式の前撮り写真を京都の神社仏閣で撮影する会社が増えており、
またそれを望むカップルさんも多く、値段も比較的安いことから神社仏閣での写真撮影は人気があるようです。
絢爛豪華な衣装に身を包んだ美しい花嫁さんが、愛する旦那様とご一緒にニッコリと微笑んでいる風景は、側で見ているだけでも幸せを感じるものです。
こちら御霊神社は観光客も少なく、撮影にはピッタリな場所かもしれません。
そんな、これから人生を共にする二人が撮影しているこの場所が、一体どういう場所かを知ってしまったら…と要らぬ心配をしてしまいます。
そんな風に思うには、思うだけの訳があるんです!
実はこちらの上御料神社は、日本に戦国時代を巻き起こした原因である、あの応仁の乱の勃発地という歴史上、とても業の深い場所だからです。
そんな波乱を巻き起こした地から、人生を始めるお二人がどのような道を辿るのか…とつい心配になってしまいます。
歴史を知らず、知らぬが仏で済むかもしれませんが、知れば輝くような笑顔が引きつることになるかもしれません。
なので、独身の方は頭の隅にでも記憶しておいてくださいませ。
こちら御霊神社は、幸せなカップルの前撮り写真の場所としては相応しくありません。
人の世むなしい(1467)応仁の乱…と習いましたよね。
そうなんです。ここはその場所なんです。
ここから数え切れぬほどの人の血を流すキッカケとなった場所なのです。
しかし、もっと以前にこちらには祟りをなす御霊が祀られています。
政争などに巻き込まれ恨みを抱き非業の死を遂げた人々の魂を鎮めています。
祟道天皇、早良親王、光仁天皇の御子、垣武天皇の同母弟、井上大皇后、光仁天皇后
他戸親王、藤原大夫神、藤原広嗣、橘大夫、橘逸勢、文大夫、文屋宮田麿、吉備聖霊
菅原和子、など。いずれも怨霊の神々で御霊神社は怨霊を慰撫(いぶ:なだめる)する為に建てられました。
疫病が蔓延したのは、これら御霊の祟りだとされたのです。
そしてこのような御霊鎮めを行う筈の場所から、歴史を変えるほどの戦が始まったわけです。
応仁の乱は、1467年1月17日、こちらの御霊の森で菅領(かんれい:室町幕府の職名)畠山家の家督争いが始まりました。
これが11年にも及ぶ長い長い戦いになろうとは、この時点では誰も予想だにしなかったことでしょう。
勢力争いとは恐ろしいものです。
菅領とは、将軍を補佐する権限を持つ有力武家のことで、その一つである畠山家では少し前から義就(よしなり)と従兄弟の政長(まさなが)とが跡目争いを続けておりました。
当初は劣勢だった政長が、幕府の菅領を3度も務めた細川勝元を頼り、次第に有利に戦が運んだそうです。すると今度は義就側に、勝元と不仲だった大名の山名宗全(やまなそうぜん)が応援に参戦。畠山家の家督争いが、日本を代表する守護大名同士の戦いにまで発展してしまうのです。
応仁元年1月2日、ついに義就が時の将軍・足利義政から畠山家を正式に継ぐ者として認められます。これには山名宗全が裏から手を回し、将軍の妻・日野富子に働きかけていたのです。これに不満を爆発させたのが政長です。
自邸に火を放つと17日、この上御料神社の林に約2000もの兵を率いて陣を張りました。翌日早朝には、これに義就が3000余りの兵で攻撃、就実激しい攻防戦が続いたそうです。
この時、義就方には、巨大勢力の山名宗全が加勢しましたが、政長が頼みの綱とする細川勝元はここでは静観し、まる1日の合戦の後、政長方は敗退してしまいます。
これが応仁の乱の最初の合戦です!
これで決着がつけば時代の流れも変わったのでしょう。
けれど、運命はそうやすやすと変えることはできなかったようです。
事態はもう既に引き返せなくなっておりました。
もう畠山家だけの問題ではなくなっていたのです。
折り悪く足利将軍家の跡目争いまでもが絡み合い、対立していた細川、山名の両陣営は、戦闘態勢を固め、五月には上京を中心に全面戦闘に突入することになってしまったのです。
なんじゃそりゃあ!
ってな戦いの幕開けです…。
細川勝元率いる東軍は、室町御所を本陣として、御所を中心に御構(おんかまえ)という防御陣地を築きます。北は寺之内から南は一条、東は烏丸、西は小川通という広範囲に渡った。ここに勝元は、帝や公家、武家、町人を避難させ守っていたといいます。
対する山名宗全は、勝元の本陣の西側約500メートルにある自邸を本陣とし、花の御所に張られた勝元の本陣の西側に作った西軍本陣が西陣織で有名な西陣という地名の由来です。山名邸があった堀川今出川付近には、山名町という町名が現在も残っています。
応仁の乱で平安京の町には至る所に傷が残りました。特に南禅寺付近や東岩倉山、相国寺、船岡山の合戦などで付いたものだそうです。
茶道の聖地である小川通寺之内付近にある百々橋(どどばし)の戦いも有名。
清水寺や建仁寺など、名だたる寺院が皆消失しています。その後は徐々に山科や醍醐、島羽などの洛外での戦いが増えて行き、やがて地方に広がっていったそうです。
戦いの最中、細川勝元と山名宗全が亡くなってしまいます。
すると、待ってましたとばかりに(たぶん)諸大名たちは引き揚げを決意し、1477年戦は終わりを迎えましたが、11年にも及ぶ長い長い戦いに、結局明確な勝敗はつかなかったのです。それところか長く続いた戦で有力諸候が没落するなどして、様々な事柄を変化させました。
しかし、11年も戦えた財力は凄いですよね…。
無念の無駄に終わりましたけど…。
戦国時代は壮絶な親子喧嘩や親族争いが多く、親族同士で血を流すなど恐ろしい限り。
お金は因果応報を巻き起こす元であることは火を見るよりも明らかです。
勝っても家が没落とは因果が深すぎます。
応仁の乱は大義名分が無い分、ややこしすぎなんです。
この地はもともと家督争いで憤死した御霊ばかりが祀られる場所。
そんな因果が戦乱の世に導いたとしても何の不思議ではありません。
人の欲は恐ろしや〜。そこまで欲しい争いの元。
お金だけではありません。地位や名誉も争いの元です。
例え親御さんのお金であっても自分の物ではありません。
自身の立場の分相応のお金を持つのが幸せを維持できるものです。
お金はご自身で稼ぎ出しましょう。
財産が貰えると思って貰えなかった時は、必ず親を恨んでしまいます。
親御さんが居たからこそ、この世に生まれることが出来ただけでも御の字の筈です。
お金が人の心を変えるなど言語道断。ましてや自分を産んでくれた人を恨むなど本末転倒。お金の因果は生きてる限り、そして死んでもなお続く因果となる可能性もあります。
どうぞ親御さんのお金をあてにするような心はお捨てくださいね。
こちらで既に写真撮影されてしまったカップルさんは、夫婦生活の下克上にだけは呉々もなりませんように。
逆にこのような歴史背景を逆手にとって反面教師で学んでください。
夫婦生活を忍耐強く、仲良く永らえて欲しいと願います。
戦いは無意味です。戦うならば己の弱き心と戦いください。
その戦いだけは、大いに意味があります。
呉々も欲の権化だけにはなりませんように…。
心が鬼と化してしまいます。
人間が鬼になってはなりません。自分が苦しむだけです。
人間は人間の心でいてこそ、幸せなのですから…。
ほな(=゚ω゚)ノ