みなさま 血天井というものをご存知でしょうか。
字だけを見れば「血」という文字から、なにかしらの「いわく」を感じると思います。
血天井とは、自害などで流れた血痕の跡がくっきりと残る床板を、寺院などで天井として使用することで供養を行うものです。
全国各地に今も残る血天井ですが、今回は京都の養源院に絞りご紹介します。
養源院は、京都市東山区にあります浄土真宗遺迎院派(じょうどしんしゅう けんごういんは)の寺院です。三十三間堂の東向かいに位置するお寺です。
Wikipediaより。
こちら養源院は、戦国時代浅井長政と戦国一とうたわれた織田信長の妹、お市の方との間に生まれた三姉妹のゆかりの地でもあります。
三姉妹とは、長女、茶々(淀殿)初(常高院)江(祟源院)の、3人ですね。
養源院を創建したのは、淀殿です。
当時 淀殿は豊臣秀吉の側室となっており、前年には待望の男児である秀頼を出産しておりました。
父である浅井長政の21回忌供養の為にと秀吉に願い出て創建されました。
当時は側室側の実家の菩提寺を建設することは珍しく、寺の名は浅井長政の院号に由来します。しかし、1619年に火災で消失しますが、その4年前の1615年には大坂夏の陣にて、淀殿と秀頼は大阪城にて自害しております。これで豊臣家は滅亡してしまいます。
その後1621年に再興したのが三女の江で、この時、徳川二代将軍 秀忠の正室になっていました。豊臣に嫁いだ姉が建てた寺を、豊臣を倒した徳川に嫁いだ妹が再興して、江戸時代になると徳川家の菩提寺になるという、なんとも不思議な因果のあるお寺で、それが養源院の由来です。
そして、この養源院には血天井が供養の為に祀られております。
自刃した武将やその家族や家来達の血で染まった床板は、現代に於いてもくっきりと消えることもなく、何百年と赤く残っているのです。
古代の染み込んだ血液が、こんなにキレイに残るものでしょうか?
何百年も消えない血痕は、思ったほどドス黒くないんですね。
血痕は時間の経過と共に、どす黒くなると思いますけどね…。
よく見ると、この血天井には血で染まった人の手形や、足の跡、または顔のようなものまで映し出されているそうです。
確かに手の跡とかありますね…(^_^;)
朽ちることなく今も残るその血は、自害した者たちの無念の証なのでしょうか…。
養源院で血天井の説明を受けた方によりますと、長い棒で天井を指して「ここに、こうやって鳥居元忠公の顔が…」と説明してくださるそうですょ。
こちらで血天井の供養をするには、それ相応の理由があったそうです。
鳥居元忠(とりいもとただ)という武将がおりました。
この武将は徳川家康月まだ幼き頃、今川家に人質にだされていた頃からの側近であり、陰謀渦巻く戦国の世の中で、家康から見て、ただ一人信じることの出来る人間でした。
豊臣秀吉が1598年8月18日にこの世を去って2年後の1600年、家康は豊臣家 家臣の石田三成と激しく対立しておりました。そんな折、家康が会津の上杉家を討伐する為に、畿内を離れる事になりました。一説にはこの時、三成に背中を見せることで、挙兵させておびき寄せる為の策であったともいわれております。
出兵前の6月半ば、大阪を出た家康は、伏見城で元忠と酒を酌み交わし元忠に全てを託します。大阪の三成が挙兵すれば、真っ先に襲来されるのは伏見城であることは誰の目から見ても明らかでした。しかし、多くの兵を残さず、ここを捨て石にしていくことを家康は詫び、それに対して老臣はこう述べました。
「天下の無事であるならば、自分と松平氏で事足ります。将来 家康様が天下を取る時、一人でも多くの家臣が必要です。ここに三成方の大軍がやって来たならば、火をかけ討ち死にするしかありません。なので、多くの兵をここに残すことは無駄。従って一人でも多くの家臣をこの城から連れ出してください」と…。
2人は夜遅くまで語り合い、別れを決意したのでした。
そして、7月半ばに三成が家康に伏見城の明け渡しを要求。伏見攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋。総勢約4万の兵が城を取り囲みました。
19日、総攻撃が始まると、対する元忠の兵力は僅かに1800名。
それでも死力を尽くして元忠は奮闘。思わぬ反撃に西軍は手こずり、場内にいた甲賀衆(こうがしゅう:忍者)の裏切りにより、伏見城が炎上してしまいます。
死地にいた元忠は8月1日、ついに最期の時を迎えます。本丸にいた鳥居家の家臣およそ350人余りが討ち死に、または自刃。壮絶な最期を遂げたそうです…。
この知らせは8月10日、家康の元に届きました。
家康は三成との対戦を前に屍を弔ってあげることもできず、涙を飲んで9月15日、関ヶ原の合戦を迎えたそうです。そして、石田三成を打ち破ることができたのです。
戦後、伏見城で壮絶な最期を迎えた元忠を、家康は忠臣として讃え、そして忠臣らの血で染まった床板を各地に送り供養の為に寺院などで再利用することに決めたのです。
その一つが徳川家の菩提寺となった養源院なのです。
養源院の本堂の天井には、忠臣らの心があるとして、床として使用するのではなく天井の部分に使われたそうです。彼らの魂を成仏させる為に、日夜読経が流れる寺院は最適な場所。
それが「血天井」なのです。
分けられた血天井は全国にありますが、京都市内では左京区の宝泉院、北区の正伝寺、同区 源光庵でも供養されております。
この伏見城の攻防戦を皮切りに、三成は畿内やその周辺へと軍勢を展開させて、ここから天下分け目のけた関ヶ原の戦いに突入することになるわけです…。
戦国時代に生きた人々は、明日をも知れない死を覚悟して生きた時代。
主君の盾となり槍となって死ぬことは「武士(もののふ)の誉(ほま)れ」だと言い切って死ねる時代。
現代とは死の覚悟が違います。
この時代における武士が腹を切るという行為は、最も崇高な行為だとされておりました。
死ななきゃならない立場に立たされてるのに崇高な行為である…とか猫丸にはよく分かりませんが…。
切腹は、腹を刺し、死に至るまで直ぐには死ねないそうです。
腹を一突き刺しただけでも激痛で動けないといいます。
そこから更に腹を横に一文字に切ることなど至難の技。
なので介錯が付くんだと思います。
また、腹を刺したくらいではこと切れるまで長い時間がかかり、なかなか死ねないのです。
激痛でのたうち回る姿は残酷ですし、切腹を美徳した姿とは程遠かったので、介錯で早く死に至らせる必要があったのでしょう。
戦国時代は、腹に短刀を当てたり刺したりした時点で介錯(かいしゃく:切腹に際し苦痛を軽減するために行う斬首)がなされていたそうです。
介錯がない場合は、腹を刺した後、頸動脈を切り失血死するしか絶命する方法はなかったようです。
ならば初めから首をはねて貰えばいいじゃないか…と思いますが、それは違うようです。
切腹は日本の武士道文化であり、腹を切ることに意味があるそうです。
武士道では腹部には霊魂と愛情があるという古来からの信仰なのだそうです。
肉体的な自害ではなく、魂の自害ということになりましょうか。
身分ある武士にだけ許された切腹。武士道といつ誇り高き特権階級に与えられた死だったようですが…。
しかし真実は、魂まで抹殺させる行為だったのではと猫丸は考えております。
驚いたのは、やはり古代から魂が腹に宿ると知っていた…ということです。
実際、生きている人間に宿る魂が鎮まる場所こそ、腸のあたり(ヘソ)です。
人が亡くなる間際、魂は腸のあたりから浮き上がり、肉体から出ていきます。
おへその辺りに力の入っていない人は魂が浮き上がっている人が多く、そんな方は元気のない方が多いです。
腹に力を入れる…気合を入れる時は必ず下腹に力を込めますよね?
これを霊的に見れば、魂をよりしっかりと肉体内部に治める行為を人が無意識にやっている行為なのです。
これは自分を守る行為であり、なんらかの理由で浮き上がってしまった魂を元の位置に収める生理的調整なんです。
魂が浮いた状態の方は、死の間際の方、病気の方、元気でない方や、精神が安定していない方に多く見られ、このような方々は普段の生活の中で下腹に力が入いりません。
そんな時、魂は浮き上がっている状態です。
魂が浮き上がってしまっているのですから、元気が出ないのは当然です。
姿勢の良い人は元気ですよね?
それは姿勢を正す格好は下腹に力を入れなくてはならず、意外と大変なことだからです。
この姿勢を正す行為が魂をしっかり鎮座させることになっている訳です。
人間はこのようなことを潜在意識下で知っているのでしょうね。
頑張ろうとする時、必ず下腹に力が入ります。
また、下腹から声を出す歌うという行為は下腹に力を入れる行為ですから、魂が安定します。
元気でない方は、腹に力を入れる事が困難です。
なので逆に元気が出ない人は、下腹に力を込める行為を心掛けるだけでも元気になります。
それは浮き上がった魂がしっかりと元の位置に戻るからです。
普段から姿勢を正して下腹に力を入れて置くことは、何よりの健康法であり元気の元になる行為です。
医学では血液は骨髄で造られている…というのが西洋医学の常識ですが、血液は腸で造られるとした千島学説を知った時に、やはり魂のある場所で血液は造られているのか…と思いました。
人間の身体の中で、最も重要な場所が腸だと個人的には思っています。
なので、腸を手術された方は、なかなか良い状態で長生きは難しいと思います。
現実に腸の手術された方を数十人知っておりますが、術後の状態は悪化しかありませんでしたし、それが元で次々と新たな病気を発症させていきました。
その数十人の方は、術後数ヶ月から数年で全員が他界されています。
検証としては事例が少なすぎますが、腸の手術は寿命を縮める可能性がとても高いように思えます。
切腹は高級武士にしか許されないとされておりますが、それは霊的に視れば因果ある相手を切腹に追いやる行為ですから、魂の再生さえ許さない因果応報だと言わざるを得ません。
実際には腹を切った所で魂は見えないんだから切れないと思うのは当たり前ですが、霊的にいえば切れるんです。
例えば腕や脚を失った方々は、無くした部位が痛むという現象が実際にあります。
話が長くなりますので、この辺にしておきます。
さて、伏見城で壮絶な死を遂げた鳥居元忠の首は大阪城京橋口に晒され、元忠を慕う町人達に供養され百万遍の知恩寺に現在もそのお墓はあります。
知恩寺は浄土宗の開祖、法然上人が創建したとされております。
この知恩寺ですが、京大と今出川通りを挟んだ場所に位置し、毎月15日に手作り市を開催することでも有名です。
猫丸も何度かこの手作り市には行っておりますが、沢山のお店が出店されていて、とても賑わう手作り市です。
知恩院もまた七不思議伝説の残るお寺。
またいずれ ご紹介したいと思っています。
ほな(・ω・)ノ