沖縄本島の、南西の海上に位置する八重山諸島のひとつ、日本最西端の与那国(よなぐに)は、かつて恐ろしい出来事があったそうです。
与那国は14世紀に沖縄本島の有力者が海上交易を始めた頃、文明化されたと推測されております。
1522年、琉球(りゅうきゅう・沖縄のこと)王朝の支配下に組み入れるまでは、女首長サイアイ・イソバ(実在不明)の下で独立国であったそうですが、この頃は「女護が島・にょごがじま」いわゆるアマゾネスのような部族が、日本にも、もしかすると存在していたかもしれない…という、未知なる島なのだそうです。
もともとは、女性だけが住んでいた島だそうで、八丈島の伝説では「女護が島」と「男が島」の二つの島があり、年に一度女護が島に男が島から男達がやって来て、一夜限りの契りを結び、男が生まれれば男が島へ、女が生まれれば、女護が島にて育てたという文献も残っているようです。
そんな女性だけの島だったはずの与那国島ですが、月日が経つと普通の村になって行ったのでしょうか。
与那国の西崎という海岸線には「日本最西端の碑」が建てられているそうで、ここは日本の中でも、最も遅い時間に沈む夕日が見られる美しい観光スポットなのだそうです。
画像はウィキペディアより。
この場所から程近い岩場に、大きく避け目のある場所があり、そこはかつて残忍な儀式が行われていたという伝説があります。
この裂け目は「クブラバリ」と呼ばれて古代の儀式に使用され、大勢の妊婦が亡くなったとされる、恐ろしい場所だというのです。
その裂け目から下を見ると、深い闇がポッカリ口を開けて、足がすくんでしまうほど、とても恐ろしい場所だといいます。
実際に行って見たことはありませんが、この話を知った時、寒気に襲われるほど、この儀式の内容は恐ろしく戦慄の走る伝説です。
これが真実ならば、やはり、人間が1番恐ろしい…という思いしか沸き起こりません。
16世紀、与那国島は首里(しゅり)に王府を置く、琉球王国の支配下でした。
琉球王国が薩摩藩の島津氏率いる大軍に攻め込まれた為に、琉球王国とその属国は薩摩に支配されてしまいました。
薩摩藩は琉球王国に対し、厳しい年貢を要求して取り立てた為に、たちまち琉球は財政難に陥ってしまったそうです。
そのツケを払わせられたのが領民たちです。
悪税と言われるほど酷い制度を考え出したのが「人頭税」と呼ばれるもので、王府は人頭税石という高さ143センチメートル程の石を定め、これより背が高くなった15歳以上50歳までの男女に対し、病人であろうが、怪我人であろうが、無条件で上納を義務付けするというものでした。
その税率は、なんと年間の収穫量の8割という大変非情なものでした。
その血税のお陰で、琉球王国の財政は安定したそうですが、その後、なんとこの制度は明治36年まで続いたというのですから、「本当に?」と、思ってしまいます。
当時の与那国島では、流行病などもなく、人口は増えるばかりだったといいます。
飢饉も発生し、食糧は慢性的に不足状態で、満足に食べられなくなる生活の中、追い詰められた村人が考え出した最後の選択肢が「久部良割り・クブラバリ」で行う儀式だったといいます。
久部良割り(クブラバリ)とは、岸壁の岩場の裂け目という意味です。
クブラバリで行われる儀式の内容とは、年に一度、村中の妊婦を集め、巨大な岩の裂け目であるクブラバリを飛び越えさせる…というものです。
幅3メートル、深さ20メートルというクブラバリは、男性でもやっと飛び越えられるかどうか…というものだそうで、お腹の大きな妊婦には、とても飛び越えられないような裂け目だそうです。
そんな裂け目を、妊婦には無条件で、飛び越えねばならない試練を与えたそうです。
幅3メートルって…男性でも無理じゃないですかね?
これを考え出した者は「これを飛び越えられるくらいでなければ、丈夫な子供は産めない。これを飛び越えられた女性から生まれた子供は丈夫で、母子共に貴重な働き手になるだろう」と言いのけたそうです。
これが実際に行われていたとすれば、口減らしの為の人口削減の為の行為だったと思われます。
妊娠さえしなければ、クブラバリを飛び越えることもないわけですが、恐ろしさを通り越してでも子供が欲しかったのか、出来てしまったのかはわかりませんが、公然と行われた人口削減は、公開処刑としか思えません。
心底恐ろしいことです。
年に一度、この儀式に集められる妊婦たちは、どんなにか恐ろしい思いで、その日を迎えたことでしょうか。
想像するだけで寒気しかしません。
集められた妊娠が順番を待つ間、恐怖から泣き叫び、逃げようにも逃げられず、無理矢理飛び越えさせられた結果、大抵の妊婦たちは無残にも裂け目に落ちていったそうです。
裂け目の向こう側は、2メートルも低くなっており、運良く向こう側に飛び越える事が出来ても、勢い良く飛び越え転げ落ちる衝撃で流産してしまったといいます。
実際に行われていたとすれば、母子共に無事に生還するのは難しかったと想像します。
こんな公然の処刑が行われていた歴史の残酷さは、現代では考えられません。
また、もう一つの伝説があり、祖内集落の南方段丘上には、かつて水田が広がっていたそうです。
そこにはトングダ共に呼ばれる水田跡があるそうです。
この場所にも悲惨な伝説が残されているようです。
村役人は、この田んぼに突然村人全員を招集し、田に入ることが出来なかった病人を含めた全ての村人を殺害したそうです。
口減らしの為だったのでしょうか?
にわかには信じ難いこの伝説も、真実なのでしょうか?
真実ではないと、信じたい気持ちになります。
与那国の与那(よな)とは、境界という意味だそうです。
即ち、与那国とは古代琉球国の最西端に位置する、絶海の孤島という意味です。
人口も少なかったこの独立国は、どんどん子供を作って人口を増やし、ついには島の人口もかなり増え過ぎるほど増えてしまった。
そして天変地異などの影響から食糧不足が発生し、そこでこのクブラバリでの儀式が生まれた…。
という、伝説です。
これが真実なら、人間の身勝手さ残虐行為ほど、恐ろしいものはないですね。
ほな(=゚ω゚)ノ