猫丸ねずみの大荒れトーク


カテゴリ:不思議 心霊( 115 )



実録・殺人事件での怖い話…No.6 奈良生駒殺人事件など…



久しぶりの実録・怖い話です。今回で6話目となります。

現実に起きた殺人事件での、犯人の心霊体験が犯行を明らかにしたという話です。

占い的に事件の原因など考えてみたいと思います。

あくまでも猫丸的見解です。




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▪️ 奈良県・生駒市で起きた殺人事件

2015年12月21日の午後、奈良県警に1人の男がやってきたそうです。

男は大津市に住むという無職の川中浩(52)。

男が「人を殺したので出頭した」というので警察は取り調べをし、奈良県警は川中浩を12月22日に殺人容疑で逮捕したという話です。

県警によりますと、川中浩は「実は人を殺したんだが、被害者が毎晩枕元に立つので仕事も手につかなくなって自首した」と語ったといいます。

川中浩の逮捕容疑は2013年8月に、同県生駒市のアパートで同居していた稲垣クニ子さん(当時82歳)の口や鼻を枕に押し付けるなどして殺害した疑いです。

2人は30年も前から交際しており、付き合った当初の年齢が川中容疑者が22歳、被害者クニ子さんが52歳ということで、かなりの年の差カップルだったのですね。

川中容疑者が殺人を犯した年齢と交際当初のクニ子さんの年齢は同じ歳です。

同じ52歳という年齢でクニ子さんを殺害してしまうという偶然?も気になります。

警察が川中容疑者の過去を調べますと、月日が経ってクニ子さんが高齢となり歩行困難となり、ある程度介助が必要だった状況に嫌気がさした川中容疑者は、2014年の1月にクニ子さんをアパートに置き去りにし死亡させたとして、保護責任者遺棄で逮捕されているそうです。

その後に奈良地検が起訴猶予処分にしています。

しかし、これが置き去りではなく実は殺人だった…という訳なんです。

発見当時クニ子さんの遺体損傷は激しく死因が特定できなかったそうです。
警察も殺人事件としての立件はせず、その後 川中容疑者は何食わぬ顔して滋賀県の大津で土木関係の仕事をしていたようです。

捜査関係者は「介護疲れで殺害したんだろう」と話しているそうですが…。

お日柄的には正確な殺害日が判明していないので確かな事はわかりませんが、捕まった日(自首)のお日柄や逮捕が確定した日が殺害の原因となるワードの参考にはなると思います。

川中容疑者の場合は12月21日に出頭し、22日に逮捕されました。21日からは家族間のトラブルが多くなる週の始まりの日でした。普通以下となるか普通以上となりやすいお日柄でしたから、DVから殺害にまで及んでしまった可能性が考えられます。

逮捕された日が金銭トラブルの強く出るお日柄で、また口の禍によるトラブルが多くなる傾向の強く出る日。そう考えますと、介護にはお金が掛かりますから、占い的に推測しますと、お金がないので専門の方に介護が頼めず、お金のない事でイライラし被害者と口論となった結果殺害してしまった…ということも考えられます。

21日はお酒のトラブルも起きやすい日でしたから、もしかすると川中容疑者はお酒を飲んでいた可能性もあるかもしれません。出頭した日や捕まる日なども運命的なことなので、占いで原因の推測はある程度可能です。

しかし この事件、犯人が幽霊に悩んで自首しなければ殺人事件は発覚しなかった訳です!

現実に殺人を犯しても自殺や事故として処理されてしまい、犯人が野放しになっていたのですから恐ろしいことです。

このようなケースが現実がどれほどあるのでしょうか。

そんな水面下の殺人犯がこの世には数えきれぬほどいるかもしれません。

ほんと、ゾッとする話です。

殺害された女性はだいぶ年上ですので、生前は加害者の内縁の夫を子供のように支えていたのかもしれません。

なのに無残にも殺害され無念さが募り毎夜出てきたのか、それとも殺人を犯してしまった夫を心配して自首するように促し毎夜枕元に立ったのか、猫丸は直感的に後者の可能性が高いと感じました。




▪️広島・子供殺害事件


1977年1月23日、広島県で当時2歳の長男を浴槽に沈めて殺害するという事件が起きました。

この事件の犯人は母親でしたが自首ではなく、警察の捜査によって逮捕されています。

逮捕後この母親は逮捕当初から毎晩眠る度に拘置所内の部屋でうなされ続けていたそうです。

毎晩のように酷くうなされる姿を不審に思った刑事は、1976年にも不審死を遂げた当時1歳の長女について尋問したところ、母親は涙を流して長女の殺害も告白したというのです。

当時の新聞記事によりますと、殺害された子供達は毎晩母親の枕元に現れ、長女は「マンマ、マンマ」と言いながら乳房に小さな手を伸ばし触れてきたそうです。

長男は「母ちゃん冷たいよう」と言って泣き叫んでいたといいます。

この世に生まれてたった1歳と2歳で殺害されてしまった幼き子供達。

無条件に信頼する母親に殺害されてしまうという悲劇に言葉もありません。

母親にどんな理由があろうと、この世では幼き命を抹殺した罪は償うしかありません。

この親子の因果を辿れば、この殺害された子供達も今世では母親に殺されなくてはならない因果を持っていたのかも知れません。

この世の親子や親族という関係で問題が多かったり敵対する関係は、そんな深い因果を持つ関係だったりする事が霊的にはあります。

恐らく、この母親は1人目の子供を殺害した時点から、かなり恐れの念が強くあった可能性が高く、子供たちが恨んで出てくるのでは?と恐れる余り、子供達の魂の波長が合ってしまったのでしょう。

母親の恐怖する心に無条件に引き寄せられたと猫丸は思います。

お日柄占い的には、この日は男女問題や親子間のトラブルの多い日で、また普段しない事をしでかしてしまいやすいお日柄でした。親族を大切にしないことでトラブルが発生しやすいお日柄でしたので、自勝手な心が働き、子育てから解放されたい気持ちから殺人に発展した可能性があります。

どんな理由があるにせよ子供を2人も殺害した身勝手な犯行である事は間違いありません。子供を殺さずに済む方法はあったはずですから。

しかし、犯罪を犯してしまう人は、そんな考えには至らないのが残念です。

身勝手な行為をしながら、殺害した子供達の霊に恐怖した母親。

子供達が母親を恋しいと思って母親の元に現れたのではなく、母親の恐怖の念で子供達の魂が母親の元に引き寄せられ呪縛されているようです。

子供達の魂は本当に浮ばれませんね。

母親は殺害した子供たちのことを一生忘れることなく冥福を祈ることが罪を償うことになるのでしょう。





▪️ アメリカの一家惨殺事件


1966にアメリカのニュージャージー州のボゴタで、一家3人が惨殺されるという事件が発生しました。

殺害されたのは、2人の両親とナタリア・オレステスという少女でした。
特に少女の殺され方は残忍で白いドレスが真っ赤に染まったら姿を見て、警察はドレスの色を白ではなく「赤茶色」と申告したそうです。

事件から何の進展もなく2年が過ぎようとした頃、事件現場の屋敷の敷地内に黙って入り込む近所の子供達がよく目撃されるようになり、住民からの通報で警察官が子供達に注意をすると、子供達は「だって、ここには可愛い女の子がいて一緒に遊ぼうって、僕たちを窓から手を振って呼ぶんだもん」と、言ったそうです。

その話を聞いた地元住民は「ナタリアだ!」と誰もがそう思ったそうです。

そしてこの噂は瞬く間に町中に広がりました。

そんな矢先、自分が犯人だと自首してきた男が現れたそうです。

この男は、犯人でなければ知りえないような現場の詳細な状況を話し、警察はこの男を真犯人として逮捕したのです。

取り調べで男は、「実は最近になって、あの時殺した女の子が枕元に立つんだ、そして、「おじさん罪を償って警察へ行って。じゃないと、私、安心して天国にいけないの…」と、いつも俺の耳元で囁くんだ」と話したそうです。

犯人の男はベットに入る度に現れる少女が怖くて自首したようです。

幽霊が現れなければ、自首など絶対にしなかったのでしょうね。

この事件については、事件発生日や自首した日が分かりませんでした。

幽霊になった被害者の霊に促されて自首をするというケースは非常に珍しいケースです。

殺害された被害者の方すべてが、このケースのように犯人に訴えることができるなら犯人も自首して反省出来る可能性も高いですのにね…。


日本は東日本大震災前には殺人事件は減少傾向で、東日本大震災後2年ほどで殺人事件はまた増えているように感じます。

しかし、昭和初期には今よりも約4倍も殺人事件は発生しており、それが時代と共に減少していき、2007年には戦後最低の1199件にまで減少したのです。ところが2013年頃から殺人事件は劇的に増えているように感じるようになったのは、やはり殺人報道が多くなったからだと感じています。とりわけ親族間の殺人事件は深刻です。愛が深まれば相手と上手くいかなくなった時、相手を憎む気持ちに偏るのも人間です。

普通なら理性で抑える感情も親しき中に礼儀がなければ当然抑えられなくなります。

事件が発生すれば犯人の家族も当然巻き込まれることになります。世間に騒がれる大きな事件ほど、加害者家族の運命は悲惨なものとなります。加害者の家族も大なり小なり社会的制裁を受けることも多く、生き地獄を味わう家族もおられます。

天涯孤独であれば罪を犯しても本人だけの問題で済みますが、家族がいる限りそうはいきません。罪を犯せば家族に多大なる迷惑がかかるのが現実です。

ですが、犯罪を犯す子供を育ててしまった親の因果は、相応な応報を受けねばならないのも現実なのです。

昭和60年代に起きたある事件の犯人の母親が言った言葉があります。

母親は「うちが被害者なら良かった」と。この言葉の意味は重いです。

人を殺めるということは悲しい連鎖を生み出します。

新たな恨みを生み出し、再び因果を発生させるのです。

恐らく、いつの時代になっても殺人事件が減ることはあっても、この世から消えることはないのでしょう。

自分が加害者や被害者の立場になることがないように、一生を送りたいものです。




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心霊体験をした犯人の心理状態により、霊の視え方感じ方は異なるのかもしれません。

しかし、実際には殺人を犯しても霊など視えなかったり感じない人の方が圧倒的に多いのも事実です。

人を惨殺しておいて魂の無念が視えない方、感じない方が多いのは非常に残念なことです。

それこそ、人を殺して後悔するほど祟られるなら再犯も新たな殺人も起きないと思うからです。

人の背景(因果)は人それぞれで、見えるこの世界ではあからさまに理不尽な事件でも自身の前世や先祖の因果により、殺害されてしまうケースもないとは言い切れません。

前世が自分の先祖だった立場であることも多く、前世の自分がしでかした事の応報である可能性もある訳です。

視えない世界は信じられない方の方が多いと思いますが、この世には目では視えない世界が確かに存在しています。しかし視えないということは、視えない人に取れば無いのと同じこと。

しかし、霊的なものを視えない感じない人であっても、殺害した因果の影響を全く受けないことではありません。確実に因果応報は存在しますので、何らかの形でその罪の応報は受けているはずです。

しかし、本人がその応報を受けていると感じているかは分かりません。

ほんの些細な動機から大きな動機まで、殺人事件に至るケースは様々ですが、どの事件の背後にも其々の事情があります。

ですが、どのような理由があるにせよ、人間界は殺人は罪です。

通常ならば誰しもがそんな殺人なんてするわけない…と思って生活しているいるにもかかわらず、些細な事で殺人事件に巻き込まれたり巻き込んでしまう人もいるのが現実です。

現に毎日犯罪は発生しているのですから…。

お日柄占いでは、日々の動向がある程度予測できますので、その日に気をつけるべきを気をつけて過ごすことが最大の災難除けとなり、気をつけて過ごすことで自分の人生を傷付けずに済むことに繋がると考えております。

運命に翻弄されないように自分の強い意志を育てることが運命を変えていける唯一の方法です。

「気をつけて生きる」ということは、犯罪に巻き込まれず、また人を犯罪に巻き込まなくて済む方法のひとつです。






ほな (=゚ω゚)ノ

by neko_nezumi | 2016-01-27 23:56 | 不思議 心霊 | Comments(0)


日本最西端の島「与那国島・クブラバリ」の恐ろしくも悲しい伝説!


沖縄本島の南西の海上に位置する八重山諸島のひとつ、日本最西端の与那国(よなぐに)は、かつて恐ろしい出来事があったそうです。

与那国は14世紀に沖縄本島の有力者が海上交易を始めた頃、文明化されたと推測されております。1522年に琉球(りゅうきゅう・沖縄のこと)王朝の支配下に組み入れるまでは、女首長サイアイ・イソバ(実在不明)の下で独立国であったそうで、この頃は「女護が島・にょごがじま」いわゆるアマゾネスのような部族が日本にも存在していたかもしれない未知なる島です。もともとは女性だけが住んでいた島。八丈島の伝説では「女護が島」と「男が島」の二つの島があり、年に一度女護が島に男が島から男達がやって来て、一夜限りの契りを結び、男が生まれれば男が島へ、女が生まれれば女護が島にて育てたという文献も残っているようです。

そんな女性だけの島だったはずの与那国島ですが、月日が経つと普通の村になって行ったのでしょうか。

与那国の西崎という海岸線には「日本最西端の碑」が建てられているそうで、ここは日本の中で最も遅い時間に沈む夕日が見られる美しい観光スポットなのだそうです。



画像はウィキペディアより。

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この場所から程近い岩場に、大きく避け目のある場所があり、そこはかつて残忍な儀式が行われていたという伝説があります。

この裂け目は「クブラバリ」と呼ばれて古代の儀式に使用され、大勢の妊婦が亡くなったとされる恐ろしい場所だというのです。

その裂け目から下を見ると、深い闇がポッカリ口を開けて、足がすくみとても恐ろしい場所だといいます。

実際に行って見たことはありませんが、この話を知った時点で寒気に襲われるほど、この儀式の内容は恐ろしく戦慄が走る伝説です。これが真実ならば、やはり、人間が1番恐ろしい…という思いしか沸き起こりません。

16世紀、与那国島は首里(しゅり)に王府を置く琉球王国の支配下でした。
琉球王国が薩摩藩の島津氏率いる大軍に攻め込まれた為に、琉球王国とその属国は薩摩に支配されてしまいました。薩摩藩は厳しい年貢を要求し、取り立てた為にたちまち琉球は財政難に陥ってしまったそうです。そのツケを払わせられたのが領民たちです。

悪税と言われるほど酷い制度を考え出したのが「人頭税」と呼ばれるもので、王府は人頭税石という高さ143センチメートル程の石を定め、これより背が高くなった15歳以上50歳までの男女に対し、病人であろうが、怪我人であろうが、無条件で上納を義務付けするというものでした。

その税率は、なんと年間の収穫量の8割という大変非常なものでした。
その血税のお陰で、琉球王国の財政は安定し、その後もなんと明治36年まで続いたというのですから、本当に?と思ってしまいます。

当時の与那国島では流行病などもなく、人口は増えるばかり。飢饉も発生し、食糧は慢性的に不足状態で、満足に食べられなくなる生活の中、追い詰められた村人が考え出した最後の選択肢が「久部良割り・クブラバリ」で行う儀式だったといいます。

久部良割り(クブラバリ)とは岸壁の岩場の裂け目という意味です。
クブラバリで行われる儀式の内容とは、年に一度村中の妊婦を集め、巨大な岩の裂け目であるクブラバリを飛び越えさせる…というものです。

幅3メートル、深さ20メートルというクブラバリは、男性でもやっと飛び越えられるかどうか…というものだそうで、お腹の大きな妊婦には、とても飛び越えられないような裂け目だそうで、そんな裂け目を妊婦は無条件で飛び越えねばならない試練を与えたそうですが、幅3メートルって…男性でも無理じゃないですかね?

これを考え出した者は「これを飛び越えられるくらいでなければ丈夫な子供は産めない。これを飛び越えられた女性から生まれた子供は丈夫で母子共に貴重な働き手になるだろう」と言いのけ、実際に行われていたとすれば口減らしの為の人口削減の為の行為だったと思われます。

妊娠さえしなければ、クブラバリを飛び越えることもないわけですが、恐ろしさを通り越してでも子供が欲しかったのか、出来てしまったのかはわかりませんが、公然と行われた人口削減は公開処刑としか思えません。心底恐ろしいことです。

年に一度、この儀式に集められる妊婦たちは、どんなにか恐ろしい思いでその日を迎えたことでしょうか。想像するだけで寒気しかしません。

集められた妊娠は順番を待つ間、恐怖から泣き叫び逃げようにも逃げられず、無理矢理飛び越えさせられた結果、大抵の妊婦たちは無残にも裂け目に落ちていったそうです。

裂け目の向こう側は、2メートルも低くなっており、運良く向こう側に飛び越える事が出来ても、勢い良く飛び越え転げ落ちる衝撃で流産してしまったといいます。

実際に行われていたとすれば、母子共に無事に生還するのは難しかったと想像します。
こんな公然の処刑が行われていた歴史の残酷さは、現代では考えられません。

また、もう一つの伝説があり、祖内集落の南方段丘上には、かつて水田が広がっていたそうです。

そこにはトングダ共に呼ばれる水田跡があるそうです。

この場所にも悲惨な伝説が残されているようです。

村役人は、この田んぼに突然村人全員を招集し、田に入ることが出来なかった病人を含めた全ての村人を殺害したそうです。
口減らしの為だったのでしょうか?

にわかには信じ難いこの伝説は、真実なのでしょうか?

真実ではないと信じたい気持ちになります。

与那国の与那(よな)とは境界という意味だそうです。

即ち与那国とは、古代琉球国の最西端に位置する絶海の孤島という意味です。

人口も少なかったこの独立国は、どんどん子供を作って人口を増やし、ついには島の人口もかなり増え過ぎるほど増えてしまった。そして天変地異などの影響から食糧不足が発生し、そこでこのクブラバリでの儀式が生まれた…。

人間の身勝手さや残虐さ以上に恐ろしいものはないですね。





ほな(=゚ω゚)ノ


by neko_nezumi | 2015-03-18 21:55 | 不思議 心霊 | Comments(0)


東京・摩訶不思議な街・欲望の街に発展した新宿の歴史。

画像Wikipediaより。
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東京・新宿は歓楽街とオフィス街からなる3大副都心の一つです。

田舎から出てくる人にとれば、ここ新宿という街の印象は怖いとか、色街だとかの印象のある地域として根付いていると思いますが、果たしてそうなのでしょうか。


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新宿には独特の確立された文化があり、また日本を代表するアンダーグラウンド(裏社会)な街としても有名です。

この街が現在の姿に移り行く姿の経緯を辿ってみたいと思います。



Wikipediaより。
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江戸時代は甲州道中の宿駅(内藤新宿)として栄え、明治維新後に鉄道駅が置かれましたが、現代のような本格的な繁華街になったのは、どうやら関東大震災を契機に繁華街として成長したようです。

江戸時代は甲州街道の宿場町として、それなりに栄えていたようですが、当時は「馬糞新宿」と言われ宿場町としては余りいい印象はなかったようです。

そもそも、なぜ馬糞新宿というようにいわれたのかといえば、江戸市中から出る肥えにするための糞尿を運ぶための馬が多く往来していたことで付いた名前のようです。

街道沿いには遊女を置いた旅籠(はたご)もたくさんあったようです。

関東大震災の時の新宿は、銀座や浅草などの下町に比べると地表地盤が強かった為に、震災での被害も比較的少なかったようです。

震災後、人口が激増する中、中央線が都心に乗り換えなしに行ける唯一の鉄道だったこと、私鉄各線からの乗り換え需要で新宿に交通が集中するようになったことから、新宿が発展していった大きな理由だといいます。

昭和初期には、都内有数の歓楽街として確立されていたそうです。

1965年に新宿副都心の開発が始まり、超高層ビルが次々と林立し、1991年の東京都庁移転などを経て、超高層マンション建設も進み現在に至ります。

新宿には神社も沢山あります。有名どころをあげれば、鎧神社(よろいじんじゃ)、
稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)など平将門に由来する神社があり、1083年に源義家が後三年の役(ごさんねんのえき:現東北地方の戦役)際して建立した厳島神社(いつくしまじんじゃ)などもあります。

平将門(たいらのまさかど)とは、平安時代中期の関東の豪族で、日本の三大怨霊のお一人とされるお方。

因みに三大怨霊の後のお二人といえば、崇徳天皇(すとくてんのう)と菅原道真(すがわらのみちざね)です。



Wikipediaより。
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平氏一族の抗争から、やがて関東諸国を巻き込んでいった人物です。

合戦で藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が放った矢が将門の額に命中し討ち死にし、その首は平安京に運ばれて晒し首となり、獄門(ごくもん:江戸時代、6種類の死刑の一つで死体を試し斬りにし、刎ねた首を3日間晒し者にする刑)が歴史上で確認される最も古い例が平将門であるそうです。

新宿の鎧(よろい)神社には、平将門が着用していた鎧をこの神社に埋めたと伝えられています。また一説によりますと、平将門を討った秀郷がその後重篤な病に伏せ、これは平将門の祟りではないかと恐れ、将門の鎧を埋めて祠を建て霊を祀ったところ、たちどころに病が治ったとし、それを聞いた人々がその御神徳に恐れ、村の鎮守の社として祀ったとの言い伝えもあるそうです。

将門の首塚(墓所)は、こちら新宿にはなく東京都 千代田区 大手町1-2-1にあります。


Wikipediaより。
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伝承では、将門の首は平安京に送られ東の市、都大路で晒され3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き、数ヶ所に落ちたとされています。伝承地は数ヶ所存在し、どれも平将門の首塚とされているようです。

また、将門伝説にまつわる神社は新宿だけでなく、東京都内には沢山ありまして、その代表は兜(かぶと)神社のようです。

東京の証券取引の中心地でもある「兜町」の名称は、この将門さんの兜が祀られていることが由来だそうです。

この首塚には不思議な話がたくさん残されておりまして、不敬な行為をする者には祟りがあると信じられてきました。

その代表的な話が、関東大震災の後に塚に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、更には時の大臣であった早速整爾(はやみ せいじ)などの相次ぐ不審死が発生し、なんと続けざまに14人も亡くなるという事態が起こったそうです。

当然周囲はパニックに陥ったそうです。

そりゃ、そうです。こんな事態が発生して全くビビらない人はそんなにいないでしょうから…(^_^;)



Wikipediaより。
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そしてそれが将門の祟りではないかと噂されるようになったことで、計画を取り止めたという事実があるようです。

そして1940年、今度は大蔵省の庁舎が全焼してしまったのだそうです。

その5年後の1945年には、作業中のブルドーザーが突如ひっくり返り死人が出たそうです。

その後、高度成長期時代、国が首塚の周囲のごく一部だけを残して土地を金融機関に売却し、塚の参道には日本長期信用銀行が建てられたそうです。

すると塚に面した部屋の行員が次々と病気にかかるという異常事態が発生したそうです。

そして日本長期信用銀行は、日本で初めて破産認定を受けて倒産するという事態に陥りました。

しかし売却した国にではなく、日本長期信用銀行に祟ったのは何故なのでしょうね?

日本長期信用銀行さんは、お祓いはしなかったんでしょうか。

また、お笑い芸人の爆笑問題の太田光さんは、ブレイク前にこの首塚をドロップキックするという蛮行に及よび、そのせいなのかその後暫くの間、全く仕事がこなかったそうです。

太田光さんご本人は、この呪い説を否定しているそうですが、これが事実ならトンデモナイ罰当たりな方です。自分のお墓をキックした人がいたら、普通はどう思うのでしょう。

まぁ、普通はできませんよね。普通はね。

火のないところに煙は立たないと申しますが…噂であって欲しいものです。

将門さんにまつわる伝説はかなりありまして、趣旨が違うのでここでは詳しくご紹介しませんが、一つだけ簡単にお伝えすると、なんでも山手線が将門さんの怨霊を封じ込める為の鉄の結界だと噂されており、東京には将門さんゆかりの神社が沢山ありますが、その中に主要な神社を順番に繋いでいくと北斗七星の形となるそうです。

これらの神社は徳川家康が設けたもので、将門さんの怨霊を神格化させて江戸を守ってもらおうとするチャッカリ作戦だったというのです!北斗七星は将門さんが信仰する妙見菩薩に由来するのだとか…。山手線は、この北斗七星を分断する形で路線に敷かれ将門さんの首と胴体を鉄の輪で分断することで怨霊を弱めている…ってなことです。

将門さんゆかりの神社は、鳥越神社、兜神社、神田明神、将門首塚、筑士八幡神社、水稲荷神社、鎧神社で地図上で繋ぐと北斗七星のような形が浮き上がるそうです。

さて、新宿駅構内には慰霊碑があるのはご存知でしたでしょうか?

JR新宿駅の中央線ホームの端に、その慰霊碑は現在もあるそうです。
昭和10年ごろに改修工事の際に事故で亡くなられた作業員の為の慰霊碑だということですけど、この場所は職員通路を通らないと行けない場所にあるそうです。
この慰霊碑の真上が中野よりの中央線ホームなのだということですが、ここは飛び込み自殺も多い場所のようです。

内藤新宿の由来ですが、信州高遠藩主、内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として設けられたのが新宿の始まりと書きましたが、内藤氏との繋がりは豊臣秀吉により後北条氏(ごほうじょうし:関東戦国時代の大名)が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年に遡ります。三河時代より徳川家康の小姓(こしょう:武家の職名で将軍や藩主の雑用係)として仕えていた内藤清成(ないとうきよなり)は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備の為、現在の新宿二丁目付近に陣を敷いたとされています。

この功績が認められ清成は、現在の新宿御苑に中屋敷、下渋谷に下屋敷を構えたそうです。なので、内藤新宿という名になった訳です。


そして、伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置されたことにより、百人町という名の元になっているそうです。

江戸時代、甲州街道は江戸から甲府まで主要街道として整備されたものの、宿屋がなく現在の新宿二丁目近辺に人家が出でき、町屋ができと少しずつ発展して行き、1697年に漸く宿場が開設され、新しく出来た宿と書いて「新宿」となったそうです。

明治維新後は武家地は住む者がいなくなり荒廃したことで、内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物が適否するかを試験する試験場となり、1879年に新宿植物御苑と改称され、これが新宿御苑の由来だそうです。

江戸時代の岡場所(おかばしょ:性を売る商売)は、明治以降は遊郭となり、戦後の公娼廃止後も赤線地帯(あかせんちたい:売春が行われていた地域の俗称)として、1958年まで存在していたそうです。

そして戦時中は新宿も東京大空襲により大きな被害を受けたようです。

戦後の商売は闇市から始まったといっても過言ではないほど、戦後何もかもが焼け落ち皆が飢えに苦しむ中、物を融通して調達してくれる闇市は国民にとればどれ程有難かったことか…と、祖母に聞いたことがあります。

戦後はスーパーインフレが世の中を襲っていましたから、物を買えることが凄いことだったそうです。

そんな中、戦勝国でない外国人がやりたい放題の時もあったようで、その時に外国人に立ち向かったのが警察ではなく、なんと暴力団だったそうです。

闇市は暴力団によって安全を取り戻し拡大し、ここから暴力団組織がどんどんと大きな勢力を持つようになっていったそうです。

最初は不良外国人から守る為に働いていた暴力団ですが、そのうち我が物顔で歩き出し、ここからみかじめ料が発生していったようです。

闇市では、闇市の名の通り普通では買えないような物まで出回るようになっていきます。

それが当時に流行ったヒロポン(覚せい剤)です。
闇市が建ち並んだことで、良しにつけ悪しきにつけ戦後新宿の商業の先駆けとなっていったようです。

新宿には東口、西口、南口などに闇市は散らばっていましたが、何度となく警察に撤去もされたそうです。それでも生きる為に人々も必死です。相当しぶとく生き残っていた闇市などは、思い出横丁や新宿ゴールデン街がそれにあたるそうです。

1950年ごろには社会も復興して豊かになると、闇市で売られるものは次第に需要がなくなります。それは品質の悪い粗悪品やサービスの悪さからだといいます。

こうして新宿から闇市は完全に消え、徐々に商店が再開し始め、戦前にも増して活気を取り戻していきました。

因みにゴールデン街には現在257店舗が営業しているんだそうです。

ゴールデン街はもともと闇市があった場所。

強烈な仲間意識が存在しているといわれ、嘘か真か常連客以外には冷たい対応の処も多いとか…(^_^;)

新宿で起きた大きな事件を調べてみますと、戦後の1948年に「寿産院もらい子事件」があります。

柳町にあった寿産院で100人以上もの子供達が死亡していたことが発覚した事件です。配給品を受け取る目的で子供を貰い受け、子供にろくに食事を与えず死亡させていたというものです。戦後の食糧難の時代背景が起こした事件です。

そして、猫丸もよく覚えているのが「新宿西口バス放火事件」です。
1980年8月19日21時過ぎ、新宿西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのバスに男が新聞紙とバケツに入ったガソリンを投げ込み、死者6人、14人が負傷した事件です。

世の中は聖人ばかりではありませんし、人口密度が多いところは犯罪も多く発生します。東京での犯罪発生件数の多い場所は、日本地域番付によりますと驚いたことにダントツの1位が千代田区なんですよね…。次いで福生市、渋谷区ときて、4位が新宿区なんだそうです。まあ、第4位ではありますが、不良外国人が増えて以来、報道されない殺人事件も多くあるようです。

昭和30年頃になると、商業の発展と共に娯楽施設や演劇の拠点となって行き、戦前以上の歓楽街となって行きました。その中心が新宿 歌舞伎町です。

1956年には新宿コマ劇場がオープンし、1964年には紀伊国屋ホールが開場し、新宿はこの頃からアンダーグランド(表には出せない様な裏世界の俗称)な発信地として成長していったそうです。新宿は独自のサブカルチャーの発信地となって行く訳です。

新宿独自の文化は一口では語れません。

表も裏も多様であり、昼と夜の顔は全く真逆となるその姿を、決して一括りには出来ない雰囲気がムンムンしております。

さして広くないこの新宿には複雑怪奇なコミュニティが繰り広げられており、それはそれは濃厚なものです。

裏の顔はフェチ要素も高く、一度ハマり込めばその迷宮からは出られない、抜け出せないとことん異様な世界が多種多様にあります。

歓楽街として名高い歌舞伎町の大きな特徴として、道の作り方があります。

全ての路地が先を辿ると必ず建物にぶつかる「T路地」になっています。
これは、意図的なのか先を見通せない構造になっているかのようです。
なので歌舞伎町という街は、一度では把握出来ない構造となっています。
このような造りからも、なんとも摩訶不思議な街であるのです。

魔的な魅力を放つ新宿 歌舞伎町は、昭和50年頃からニュー風俗と呼ばれた新しいスタイルの店舗が相次いで開店しました。
現在のような風俗街も新たに確立していきました。

この頃の歌舞伎町界隈は住吉会系の組織が仕切っていたそうで、他にも山口組や稲川会、極東会、松葉会などが存在していたようですが…。

昭和50年頃から不法滞在の外国人が増え、世界各国のマフィア組織の介入などにより危険レベルは更に上昇していきました。もう、ありとあらゆる人種がここには集まって一時期は無法地帯化されていたようです。

現在も歌舞伎町の中では、そんな暗黒な場所が存在するかもしれません。

なにが危険かといえば、不良外国人が増えたことで薬の売人などが増えていることです。
もちろん、そんなの買えばお縄です!

外国人との抗争や外国人同士の抗争も度々起こるようです。

世界各国のマフィアと日本の組織が現在どのような関係があるのか…なんてことまでは分かりませんが、現状抗争が起きてないのですから現在は共存共栄しているかもしれません。

2000年あたりから厳しくなった暴対法や暴排条例なども加わった結果が現実裏社会でどの様な影響が出ているのか…等も当然の事ながら分かりません。

歌舞伎町のイザコザや殺人事件は余り表に出ないという噂もありますけど、どうなのでしょうか。

ひと昔前とは違い法律も厳しくなりましたので、現在はマフィア同士の対立は無いとは思いますけれど… ね?

歌舞伎町より福岡とか、六本木の方が抗争関係の殺人事件も多く怖いとように感じますけどねぇ。

そして新宿は、昔から色街として賑わってきた場所なのも確かなことでありましたが、1956年の売春防止法が施行されると、売春店舗が全面的に撤退されました。

その後、空き物件が増えた二丁目エリアは日本屈指のゲイタウンで、それまで人目を忍んで営業していたゲイバーや、ゲイをターゲットにした店舗が多く集まる場所となって行くわけです。

ここからゲイタウンとして名高い新宿二丁目が独特のスタイルで発展して行き、1960年頃にはゲイタウンとしてかなり定着していたようです。ゲイの店舗は実際には二丁目だけでなく、二丁目周辺にもゲイの店舗は点在しています。

1980年頃からメディアでも取り上げられるようになると、全国的に有名になり、二丁目はゲイのメッカとして多くの人に知られるようになりました。

メディアの影響はかなりのものだったのでしょう、ノンケ(ゲイでない人)と呼ばれる人達が、興味本位で気軽に遊びに行ける街となりました。

全盛期は400店舗ほどあったというゲイバー関連の店舗も、現在は300軒ほどに減っているそうです。

それでも観光地としての需要も高く、全盛期と比べれば落ちるものの、それなりに人気の高いスポットであると思われます。

その反面、観光地化したことで、ゲイの方々にとっては居心地の悪い場所にもなってしまったそうで、また近年こうしたゲイの方々を受け入れる風潮が長く続いたお陰も手伝い、今や様々な地域にゲイ店舗が出店できるようになったようで、なにも新宿二丁目に行かなくても…という、ゲイの方々の二丁目離れもあるようです。複雑ですね。

今や二丁目も風前の灯…と揶揄されているとの噂もありますが…。
どうなのでしょうね。

ゲイと一括りにしておりますが、同性愛者の中身は多種多様のようでして、二丁目はニューハーフ系ではなく、見かけも男性そのままの形を好む方が多いのだそうです。

様々な属性をもつゲイの方々の趣向性は広く、その一例を挙げると、ゲイ(ホモセクシャル)、オネエ(非女装トランジェスダー)、女装家(女装トランジェスダー・女装はするが身体は男性のままでいたい人)、ニューハーフ(現在は女性とみなされ男性同性愛には含まれない)とのことですが、これもほんの一部なんだそうです。

奥が深すぎてわかりません…(^◇^;)

二丁目には、ニューハーフや女装系の店舗は少ないみたいです。
女装系は歌舞伎町に昔からあった「黒鳥の湖」というショーパブがありましたけど、現在もまだ営業されているようです。

また、近年までアジア系組織が介入し混沌としていたそうですが、もともと男性同士で構成される二丁目、ゲイの方々もテリトリーを死守されたのでしょう。現在はさほど介入も少ないそうで、実際はそれほど危険な場所ではないようです。

また、ゲイを性の対象としたり恋愛対象とする女性も出現しているようです…(汗)
要するに、女性を好きでない方を女性が好きになるという趣向?の女性もチラホラいるようです…(^_^;)

2000年からは、渋谷の協賛行事として新宿二丁目振興会を中心に企画されたゲイ・レズ(女性愛者)の為のイベント「レインボー祭」が毎年開催されているようです。

第一回目は目抜き通りを通行止めにして、約1万人もの人で賑わったそうです。

戦後初期、東京のゲイタウンといえば上野、浅草、新橋エリアだったそうですが、今やゲイタウンといえば新宿二丁目と答える人が多いと思います。

因みに戦後初のゲイバーは、1945年に新橋の鳥森神社参道に開店した島田正雄さんが経営される「やなぎ」だと言われているようです。こちらは女装BARの色合いが濃い店舗で、その筋の方々には有名なお店だそうです。

有名人で有名なゲイといえば、小説家の三島由紀夫さんでしょうか。
しかし、美輪明宏さんによりますと「三島さんは本当のホモではなかった」とコメントされており、そのような趣向があっただけ…というのが真実のようです。

戦後の日本文学界を代表する作家の一人である彼は、政治的傾向が強くなり、民兵組織「楯の会」を結成し、45歳の時、1970年11月25日に市ヶ谷駐屯地にて自衛隊の決起を呼び掛けた後、壮絶な割腹自殺を遂げました。

その他、カミングアウトしているゲイの方といえば、外国人では海外ドラマ、プリズン・ブレイクの主役のウェントワース・ミラーさん、オリンピック水泳選手でイアン・ソープ選手、田中ロウマさん、演歌歌手の三善英史さん、お笑い芸人の安田善紀(りあるキッズ)、江頭2:50さん、などが公表しているのだそうです。っていうか、江頭さんもなの?

昨今ニューハーフや女装家ブームでしたので有名どころは皆さんもご存知だとはおもいますが、昔から有名な方といえば やはり美輪明宏さんやカルーセル麻紀さんではないでしょうか。

また、昔は「百合の小道」今は「エルロード」と呼ばれる一角には、女性同性愛者が集まるエリアがありまず。

かつては数件しかなかった店舗が、ここ数年で劇的に増えたようで現在は30軒余りあるそうです。こちらの店舗は、ほとんどが男性の入店は禁止だそうです。

百合族とはゲイ雑誌「薔薇族:バラぞく」の編集長が薔薇族の雑誌の中で女性を対象とした人のコーナーに「百合族の部屋」と付けたのが発祥だそうです。

お花がお好きだったんでしょうか…と思いきや、もともとギリシャ神話で男同士が薔薇の木の下で愛し合ったところから引用して雑誌名にしたようです。

また、ホモとは「単一」というら意味で、単一同士の恋愛を意味しているようです。

なので、レズビアンもまたホモなんだそうです…(^◇^;)

そうだったんですね…。奥が深すぎる…。

ゲイの意味を調べてみると、英語で「お気楽」「幸せ」「いい気分」「目立ちたい」という意味で19世紀後半以降に使われるようになった言葉なのだそうです。

憶測ですが、心と体がバラバラで生まれてくるという矛盾の苦痛を散々味わい、少しづつ乗り越えて行くためのアイデンティティーがゲイという言葉の意味と一致したのではないのでしょうか。

お気楽に過ごさないと現実は辛いし、でも幸せになりたいし、辛い分、いつもいい気分でいたいし、隠れて生きるなんてイヤ!堂々と生きて行きたい!という想いと重なったのかも知れません。

心と体が一致しない方々は、懸命に人それぞれの答えを探していることでしょう。

同性しか愛せない方々が身を寄り添うように固まる場所が新宿二丁目。

その試練を乗り越えて、見える先が幸せでありますように…。


最後になりますが、JR新宿駅は1日に350万人もの人が利用する世界一利用客の多い駅だとご存知でしたでしょうか。

このJR新宿駅の改札をスイカで通過すると100万人毎に自動的に100円がチャージされるんだそうですょ。

1日にたった3人にしか貰えない計算ですけど、貰えた人はラッキーですね(笑)

貰えたことに気付いてない人も沢山いるかもしれませんけどね…。

しかし350万人の往来があるって…新宿って本当に活気あるスゴイ街です!






ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-09 13:22 | 不思議 心霊 | Comments(2)


京都・摩訶不思議な町No.17・二条城に張り巡らせた仕掛け



Wikipediaより。
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京都の「二条城」は、足利氏、織田氏、豊臣氏などが携わり設けてきた城です。現在はユネスコ世界遺産として登録されております。

歴史を辿ると、足利氏から義満までの将軍が3代に渡って二条に屋敷を構えたことから始まります。この当時には既に二条の屋敷を二条城と呼んでいたといいます。

現在の二条城は1603年に関ヶ原の戦いに勝利し覇権を握った徳川家康が京都御所の守護と上洛時の宿舎として造営したものだそうです。

当初、現在も残る二の丸御殿と天守部分のみでしたが、三代将軍 家光の治世になると大改修を行い、二条城の西方にも本丸御殿と天守閣を整備してから、ほぼ変わらずに現在に至ります。

徳川幕府の拠点は江戸ですが、将軍は何かと朝廷のある京都に赴いていたのだそうです。そして京都の拠点が二条城だった為、何事に纏わる儀式もこの二条城で執り行われたという場所のようです。

更に15代将軍 德川慶喜(とくがわ よしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん:慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、天皇がこれを勅許した政治的事件)を行ったのも、この二条城でした。



Wikipediaより。
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つまり、本拠地は江戸でありながら、徳川政権の始めと終わりを象徴するイベントの全てを、この城で行われていた…ということになります。

時代の節目だけでなく、二条城は三代将軍家光の時代、後水尾天皇の行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)を迎え入れるため城内の行幸御殿を建築し迎い入れ、この時代は二条城の最も華やかな頃でした。

しかし、家光以降は行幸の場としても、上洛の宿舎としても使用されることがなくなり、二条城に徳川将軍が直接訪れる事もなくなっていったようです。

江戸時代最後の終焉(しゅうえん)を看取る大政奉還までは、大きな行事はほぼ無かったようです。

その為、二条城は丁寧な管理もされなくなってしまったそうです。

人の手が入らなくなると、二条城はどんどん老朽化を進めていったそうです。

寛延3年には落雷により天守が燃え落ちてしまい、天明の大火では類焼によって本丸御殿なども相次いで焼失。

それ以後、華々しかった二条城も江戸期には忘れられた存在となってしまったようです。

大政奉還以後、昭和初期までの時期は皇室の離宮とされていた為に、二条城は一般庶民が立ち入ることの出来ない場所でした。その為か二条城の庶民の認知度も低かったそうです。

昭和14年に国から京都市に払い下げられてからは、一般公開できるようになり観光が可能となっておりますが、昭和初期まで一般の人々が立ち入ることも出来ない場所でした。

さて、ここから本題の二条城の「からくり」についてお話ししたいと思います。

二条城には、江戸城と同じような隠し部屋や抜け穴といった有事に備えた「仕掛け:しかけ」があります。

この「仕掛け」の目的は外敵を欺くための「武者隠し:むしゃかくし」です。

二の丸本殿にあったとされる武者隠しは、当然のこと乍ら平素は決して開かれることはありません。

しかも、一部を除いてその存在さえも隠された秘密の小屋でした。

城内に侵入した外敵を迎撃(げいげき)する為に、屏風(びょうぶ)や屋根裏に造られたこの部屋に、武士を待機させていた訳です。

将軍や天皇が滞在する城ですから厳重警備は勿論のこと、万が一に備え刺客を仕込んだ隠し部屋です。

一方江戸城は、防衛や逃走を意図した設計だったそうですが、こちら二条城では武士を待機させるなど、江戸城の防衛対策の為の仕掛けと比べると、かなり攻撃的意図を持った設計ですよね。

こちら二条城のこのような仕掛けが、実際どの様に使用されていたのかは現在も謎であり、陰謀や策謀の為とする計略ではないか…と推測されているようです。

完璧に敵を仕留める為の仕掛けですけど、成功率はどれくらいだったのでしょうか。

仕掛けのある場所まで辿り着くには、忍びであっても相当な手練れでないと辿り着けないと思いますが、本当にここまで辿り着けたのでしょうかねぇ…。

また、忍びに備え廊下を歩くとキュッキュッと鳴る「うぐいす張り」などもあります。

実は、上洛にあたって滞在する大名の為に、二条城の直ぐ側に宿舎がありました。

その建物は「二条陣屋」といいます。
こちらの宿舎の方が二条城よりも迷宮のような造りになっているそうなのです。

現在、個人(小川家)が所有しているそうですが、元々は江戸時代の豪商の屋敷。
江戸期の陣屋が今尚残っているのは驚きです。維持費だけでも凄いでしょうねぇ。

こちらの二条陣屋でも、様々な仕掛けを見ることができるそうです。

二条城と同じように、天井には武者隠しが仕掛けられ、普段は隠されている吊り階段や押し入れの中にある階段などを見ることができるそうです。

二条城と違う点は、こちらは忍者屋敷のような仕掛けが充実しており、防衛や逃走を目論んだ造りだそうで、茶室風を取り入れた数寄屋造りなんだそうですよ。

また、こちらは防火建築としての評価も高く、江戸初期の知識と技術が集結された二条陣屋は、重要文化財にも指定されております。

修繕工事の為、平成21年〜25年の長きに渡る工事も終了して、現在は見学も出来るようになっているそうです。こちらの参観には予約が必要です。
お電話でお問い合わせください。

電話 075 841 0972 定員は30名までだそうです。



猫丸は二条城へは2年前に1度行ったことがあります。
二の丸御殿は豪華絢爛で、何と言ってもその広大さに圧倒されました。
桃山時代の物といわれる彫刻などが取り入れられた大書院造りで、総床面積は3300平方メートル、部屋は全部で33室あり、畳だけで800枚もあるそうです。

ちょうど訪れたのが桜の季節でして、ラッキーな事に梅もまだ咲いていて、珍しい枝垂梅も見事で楽しめました。

梅や桜だけでも十分楽しめます。

そして、二条城の見所の一つが障壁画です。

その数2000面以上もあり、そのうちの954面が重要文化財に指定されています。

ゆっくりと見る時間がなかったのですが、当時の部屋其々に合う絵が描かれたのでしょう。調度品などが取り揃えられた時代の風景と重なるとどうなるのか想像しました。

灯りがともったら、どんな感じになるんだろう…。
なんて思いながら眺めていました。

帰りにお堀の周りを歩いていると、この日は猫丸の霊界アンテナがとても敏感になっていました。

すると、この堀で人々が入水?する残像や、転落事故などで落ちて行く映像がいくつか視えました。

ものすごい数の人々が次々に飛び降りてる映像です。

大火の時に入水したものでしょうか。本気で驚きました。



ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-07 01:34 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.16・京都心霊スポット・清滝トンネルと笠置観光ホテルの怪!



京都は心霊スポットが沢山あり色々とご紹介してきましたが、今回はその中から二つの心霊スポットをご紹介したいと思います。

はじめは京都市 右京区にあります「清滝トンネル」をご紹介します。

こちらは元々 愛宕神社参詣の為に敷設された愛宕鉄道の鉄道専用トンネルとして愛宕山(あたごやま)という海抜924メートルの山に作られたトンネルです。


Wikipediaより。
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愛宕鉄道は1944年に廃線となり、その後線路跡は府道として利用され現在に至ります。今は廃止となっていますが、かつてはトンネルを超えた清滝から愛宕山 山頂まではケーブルカーも通っていたそうです。

こちらの場所、古くは南朝時代の古戦場や処刑場や遺体置き場があったという曰く付きの場所。南朝時代は応仁の乱が1467年ですからその百年以上前でしょうか。

近年近隣での自殺者も出ておるそうで山中から女性の自殺者が発見されたそうです。
またトンネル工事中に事故死した方もおられるようです。
確認は出来ておりませんので噂の可能性もあります。

また、トンネル近くには無縁仏を供養する化野(あだしの)念仏寺もあり、なのでこの場所は様々なタイプの霊の目撃情報が多数あるようです。




Wikipediaより。
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因みに化野念仏寺は平安時代以来の墓地だそうで、こちらは風葬として野ざらしの状態での埋葬だったそうです。こちらのお寺には8000体という夥(おびただ)しい数の石仏や石塔があり、化野に散在していた無縁仏の骨を掘り起こし、化野念仏寺に集め供養されたのだそうです。これだけの数の石仏を造るには、それだけの人が死んだ歴史があるということでしょう。

お寺の名前になっている「化野:あだしの」とは、儚(はかな)い、虚(むな)しいといった意味で、仏教独特の無常観を表す名前なのだそうです。

これだけの無縁仏はきっと災害系で亡くなられた可能性が高いのではないのでしょうか。なので埋葬が追い付かず風葬だったのかもしれません。
風葬というより、積み上げてただけかもしれませんね。
相当数の人々が亡くなっている…という感覚があります。

なので調べてみますと、京都での特に深刻な被害が出た災害は1181年から1182年に発生した大飢饉です。
春と夏に日照りが続き、秋には大風、洪水み見舞われ、収穫がほぼ無かったそうです。
その為、平安京の町中には餓死した人々の遺体が路上に放棄されていたそうです。
町中、異臭が漂い出すと今度は疫病が流行し、死者は増える一方だったそうです。
現代では考えられない状況です。これが養和の大飢饉です。
この飢饉、平安京だけではなく西日本一帯に及んだそうで、土地を放棄する農民が多数発生したそうです。地域社会が崩壊したことで、混乱は全国的に波及したそうです。

このような状態からたった2ヶ月余りで平安京内だけでも4万2300人以上の犠牲者が出たと方丈記に記述があります。余りにも深刻な状況下、源平合戦も膠着状態(こうちゃくじようたい)に陥ったそうです。

日本全国で、どれ程の死者が出たのかは不明ですが、計り知れない数に上ったと思われます。正に日本全国に影響した天変地異だったのでしょう。

このような事態に陥り、恐怖に駆られた人々が祟りだの怨霊だのという気持ちも分かります。

大飢饉で亡くなられた4万2300人の屍は、振り分けられて様々な場所に置かれたのでしょう。そのひとつが化野念仏寺周辺だったと考えられなくもないですね。

そんな遺体が山のように積まれた場所の近くが清滝トンネルなのです。

清滝トンネルでの幽霊の目撃者は、主に古風な着物姿の人々だそうで、様々な時代の服装の幽霊も多数目撃されているようです。また女性の悲鳴のような声、中でも恐ろしいのがトンネル内を通過中に車のフロントガラスやボンネットに落ちてくるという女性の幽霊です。ドスンと落ちてくる衝撃まであるといいます。

清滝トンネル内はとても幅が狭く、信号による交互通行となっているそうです。

しかし、「この信号が青だったとしてもそのまま進んではいけない」というお触れがあるようで、なんでもこの信号が青だったとしても、一旦止まって赤になるのを待ち、再び青になってから進まなくてはならないというのです。

なぜ、そんな面倒臭いことをしなければならないのか?という理由については、噂によりますと最初の信号青は霊界に招き入れる青信号だと言われているからだそうです。
これを無視して規則通り青信号で渡ると信号が誤作動を起こす…と言われており、そのため危うく事故を起こしかけたドライバーもいるようです。トンネル内で落ちてくる幽霊はここで落ちてくるという場所でもあるそうです。
また、行きと帰りでは点灯の長さが変わるという噂もあります。

清滝方面からの一方通行では、トンネルの脇から山越えの峠道が出ているそうなのですが、そこにはナゼか真下を向いた警告ミラーがあるそうです。

警告ミラーですから、下を向いて見える人の為なんじゃないでしょうか?と思いますけどね。

このミラーには子供の姿が映し出されたり、女性が映し出されたり、または自分の姿がそのミラーに映らない人は近い将来死んでしまう…という恐ろしい噂もあるようです。

まぁ、これらは都市伝説のような尾ひれのついた噂であると思われます。

しかし こちらは磁場の強い場所でもありますので、心霊体験がしやすいスポットではあると思われますので、心霊探検としての見学にはくれぐれもお気をつけください。



さて、お次は「笠置観光ホテル」です。


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こちら笠置観光ホテルは京都府 相楽郡笠置町(さがらぐん かさぎちょう)にある観光ホテルです。現在は既に廃業に追い込まれ廃墟と化したまま、断崖絶壁に今もなお建っているそうです。木津川が一望できた立地から、全盛期は自然を楽しむ家族連れの観光客で賑わう観光ホテルだったそうです。

しかし、新しく笠置トンネルが完成すると便利になったことから、近隣に総合リゾート施設やホテルが次々と建設されたことです。
その為なのか笠置観光ホテルは次第に経営が悪化したといいます。

こちらのホテルに関してのそこまで詳しい情報がありませんでしたので、、猫丸的にいつものように独断と偏見と直感とで感じたまま書いていきますので、ご了承ください。

現在は京都でも有名な怪奇スポットであり、廃墟マニアには有名な場所だそうです。

こちらのホテルは30年前くらいに経営を立て直すことも叶わず倒産。廃業に追い込まれてしまったようです。経営の悪化で多額の借金を背負った経営者は、無念のうちに自殺されたように思います。ネットの噂ではこのホテルで焼身自殺をしてしまったと書いてありますが、オーナーは自殺しているようですが、場所も方法も違うように感じます。
開業当初、経営者は希望に満ちていたはずです。
なのに、こんな結末になろうとは、本人も想像さえしなかったのでしょうか。
いいえ、何と無く予感はあったと思います。そんな気がしてなりません。
最初から相当の金額の借金をして開業したと思います。
なので、経営悪化に伴い借金返済が出来なかったのかもしれません。

こちらでの噂は、ホテルオーナーの幽霊や屋上機械室に出る女性の霊、階段に浮遊する男性の霊、老婆の幽霊などが目撃されているそうです。ビデオに写り込んだ霊体は男性だったとか…。

数人の霊能者によれば、ここは間違いなく怨念の巣窟となっているそうです。

ビデオにハッキリ霊体が映り込むなど、霊の目撃の噂は絶えないのだそうです。

現在は開業当初の面影はなく、破壊され尽くされた廃墟として存在しているようです。

時間の経過と共に、静かにジワジワ朽ちて行くのとは違い、この場所は人の手により破壊され尽くされているような感覚を覚えます。廃墟は大抵破壊されたりするものですが、ここは、そんな破壊される廃墟の中でも特に酷いように感じます。実際にこの場所へは行ったことはありませんが、ネットなどで廃墟の写真は見ました。しかし画像からは余り破壊されているような感じには見えませんでしたが、感覚的には先程書いたように、ここへ来ると破壊がしたくなる…という感じでしょうか。この場所辺りは怒りの念が残っています。怒りが消化されず残っていることで、感化されやすい方がここへ来ると破壊をしたくなるのかもしれません。
なので暴れたり壊したり…という傾向が感化される人には強くあるように感じますし、
そのせいでこの廃墟は酷く壊されてしまったと思われます。
人に与える影響は、少し心身的に弱っていると寒気がするくらいですし、健康な精神なら感じないと思います。ここで感化される方は、怒りの感情や悲しみの感情が特に強い人に現れる傾向がありそうです。
ここで怒りの念に感化された方は、少なからず自分自身がカッとなる感情の影響を受けたかもしれませんね。また、ここへ来たことが災いしてカッとなる気質が今なお続いているかも知れません。

何百年も経ってはいない人の想いの残留思念は、まだ自然界での浄化作用では消化はされていないようです。ここは磁場の影響が強く、霊能者さん方も辛い場所だと思います。
自然界の浄化作用が効きにくい場所なのかもしれません。

怒りの念は、この経営者の念ばかりではありません。

では、誰の残留思念なのでしょうか。

意識を集中すると、ここら辺は古代よりかなり多くの方が亡くなっているように感じましたが調べても今回は何もヒットしませんでした。古い時代の方々の意識の影響は既に消化され何もありませんが、時代的に50年〜70年前に亡くなられた意識が残っています。
遠く故郷を離れてこちらで亡くなっている方達の意識です。それらの方々から発する悲しみと怒りの想いが念となり土地に微量ですが残留しているようです。

微量とはいえ、感じる方には強い念でしょう。
これらの想いが自然界で消化されるには大分時間はかかりそうです。
こちらも磁場の強い場所です。心霊体験がし易い場所であることは間違いありませんので、何かしらの異変は感じ易い場所ではあります。

生きてた頃の人の強い想いが念となり、この念は生きていた時のエネルギーが存在したままとなっています。そしてこの念には微量な電気を帯びています。それが人のエネルギーだと思われます。そして磁場の強い場所で雨など降ったり、または近くに水脈などがあると余計に電気が通りやすくなり、その念を脳波でキャッチしてしまうのです。その為生きている人間の脳波に何らかの影響を及ぼし映像化したり、感覚的に何かを感じ取ったりし易くなると猫丸は考えています。

この念は、塩風呂に入ることで簡単に落とす事ができますのでご安心ください。
また、誰か他の人がいるならば、背中を2〜3回払うように叩いて貰うだけで簡単にその影響は落ちます。この時お腹(おへそあたり)に力をぐっと込めると尚良いです。
一人の時はお腹に力をぐっと入れる作業を2〜3回繰り返せば大抵大丈夫です。
こうすると、自分の魂が安定し、念の侵入が出来なくなるからです。

また、精神が安定している人には余り影響もありません。
それは、魂がきちんと収まるべき場所に安定しているからです。
落とした念は、基本なぜか元のあった場所に戻ります。

しかし、日頃から情緒不安定な要素のある方は魂が浮いている場合が多く、なので更に影響を受け悪化させてしまう可能性も否めません。なので、情緒が安定していない人は磁場の強い場所への訪問はやめておく方が安全です。

しかし、人間には本能が備わっていて、怖い場所や危険な場所へ赴くと、自然と力が入っているはずです。この力を込める作業が魂をきちんと収める作業なんですょ。

金縛りなどは疲れているから起きるという現象というよりも、元を辿れば魂が浮きかけている状態なのです。なので金縛りにあった時はお腹に力を入れると、直ぐに金縛りが解けるはずです。金縛りになった時は是非お試しください。

要するに魂が浮いた状態は、心身共に良い状態ではないのです。
なので、魂をしっかり定位置に収めるだけで様々な事が解消したりしてしまいます。
日頃から魂をしっかり鎮座させておくことで、心身のトラブルは減ります。
逆に心身に負担をかければ魂は浮いてきてしまいます。

なので、心身の具合が悪くなった時は、おへその辺りにぐっと力を込めお腹を引っ込めるようにしましょう。

姿勢を正し、下腹を引っ込めるような感覚です。

魂が定位置に戻れば元気になります!

どうぞ、お試しください。

とはいえ、歪ある磁場の強い場所は、何故だか人が集まってしまうんですよね…。

これが本当の摩訶不思議現象です。





ほな (・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-06 02:17 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.15・高野山・空海が開いた迷宮霊山。



Wikipediaより。
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弘法大師(こうぼうたいし)の別名で知られる空海(くうかい)は平安時代初期の僧侶です。弘法大師は20年の予定で中国に留学しましたが、僅か2年で真言密教(しんごんみっきょう)の全てを取得し西暦806年に帰国。唐から持ち帰った経典を「請来目録:しょうらいもくろく」とし、嵯峨天皇に献上し高雄山寺を賜り9世紀初頭に真言宗を日本で開いた人物です。当時、仏教界の第一人者であった比叡山・延暦寺の最澄(さいちょう)に対しても灌頂(かんじょう:仏が智慧の水を注ぐ真言密教の儀式)を行っているそうです。



Wikipediaより。
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民衆教化と天皇からの厚い信頼を得て、嵯峨、惇和、諸天皇(さが、じゅんな)の3代に渡り天皇家からの依頼で国家安泰の修法を勤め、その一方諸国を巡り文化の恩恵を受けない人々の苦悩を解決し教化に努め、更に人里離れた高野山に移り住み、ここで真言密教を大成させました。

弘法大師は讃岐の国の屏風ヶ浦の豪族の家に生まれ、期待を一身に受け非常に高い教育を受けて育った生まれながらに徳の高い身分でした。

弘法大師が18歳の時大学に合格して入学したものの、学校の勉強は弘法大師が満足出来るものではなかったそうです。儒教(じゅきょう)や漢文学(かんぶんがく)は大師の理想から遠く離れたものでした。ここで、大師の心は仏教に傾きますが官寺の僧としての学問にも興味を持てず、最初から人里離れた山林にて修行をする道に心惹かれたそうです。この道を選べば大師に期待する者たちを捨てることになります。

それについての弘法大師の苦悩と決意が「三教指帰」に書かれております。
「夫れ父母覆育堤挈することを慇懃なり。その功を顧みれば、高きこと五岳に竝び、その恩を思へば、深きこと四涜に過ぎたり」(大切に私を養育してくれた父母の苦労は五山のように高く、そのご恩は江、河、淮、済の四河より深いのです。骨身に刻みつけております。どうして忘れることができましょう)と、大師の心情を強く表しています。

そして「世間の父母は但一期の肉親と育ふ。国王の恩徳は凡身を助く。若し能く生死の苦を断じ、涅槃の楽を興ふるは三宝の徳」と決意しました。
これは、両親への恩より国王への恩よりも、広く人々に慈愛を及ぼす大きな孝行があるのだと仏道修行の道を選びました。

ここから人々の為に弘法大師の修行が始まりました。

高野山には総本山金剛峯寺がありますが、高野山は単一の山の名称ではなく和歌山県伊都郡にある山々の総称でもあります。

この山を空海時代に修行の場所としたのが819年。この後、高野山全体の寺の数は117にも及び、延暦寺のある比叡山と双璧をなす日本仏教を代表する山となりました。
現在はユネスコ世界遺産として登録されています。
世界的にも知名度の高い高野山となりましたが、ここ高野山は立ち入った者を迷宮に入ったと思わせるほどの分かりづらい構造になっているようです。

特に弘法大師の御廟(ごびょう:お墓、祠)や燈籠堂(とうろうどう)が存置され、戦国大名の六割以上の墓のある奥の院にはその傾向が強くあるといいます。奥の院には武家ばかりではなく、皇族や公家の墓も居並び、その総数は20万基を超えるそうです!

この墓所はただの巨大な墓地ではない、なにか一種独特な奥の院の空気は普通の人にさえただならぬ空気を感じるといいます。

何故ならば、この場所は此岸(しがん:現世)と彼岸(ひがん:あの世)の交わる場所であり、霊界への入り口となっているとされた場所であり、特に一の橋は死者の世界との境目(境目)とされているようです。

弘法大師は奥の院の御廟にて、現在もなお生きて修行を続けているといわれ、弘法大師・空海の元へは、毎日食事を届ける儀式が1日2回、高野山の修行僧の食事と同じもの同じ量が届けられるそうで、この儀式はもう1200年も続いているのだそうです。

御廟の地下の石室で、即身仏としてミイラになっているのか、身代わりの木像があるのか、はたまた本当に実在するのか、その真相は今以って謎とされ、毎日の食事を空海に届ける唯那(ゆいな)と呼ばれる空海の世話係だけがその真相は知り得ないのだそうです。

この御廟のある燈籠堂の地下は、まるで迷路のような造りになっており、信者達が寄進(きしん:寄付)した無数の燈籠が吊り下げられているようです。下世話な話、燈籠の大で100万円、小で50万円なんだそうです…(゚o゚;; すごいですねぇ。

この迷路奥に弘法大師が修行される部屋があるそうです。

あの世とこの世の境目の迷宮に足を踏み入れた者は、あの世の空気に触れることができるのだそうです。

奥の院に安置された墓は、名高い高貴な者だけではなく有名無名関係なく、墓石や塚が参道の両脇にズラッと並ぶ光景は、あの世とこの世の交差する場所として相応しい威厳を放っているそうです。この世から死の街道を通りあの世へと行くのでしょうか。

奥の院は墓地の為、新たな墓を作ろうと穴を掘ると土葬だった時の無縁仏の骨がゴロゴロ出てくるそうです。それらの無縁仏は数メートルにもなるピラミッド状の塚に集められ、これもまた神秘的な霊界へのオブジェとなっているそうです。

こちらは死者の国の入り口でありながらも、恐山のようなおどろおどろしい空気とは違うそうです。恐怖する雰囲気ではなく、安らかな平安なる空気が漂っているそうです。
今や会いたくても会えない、亡くなった人たちの存在を身近で感じられるような、そんな場所のように感じるのだそうです。

古来よりこちら高野山では、現世から大切な人が去った後、霊魂が極楽浄土へ行けるように願い、遺骨や遺髪を高野山に持参して、この領域奥の院に埋めてきたそうです。
1200年以上も、大切な人の成仏を願うこの儀式を行う人には、この場所はもう霊界なのでしょう。だからこそ、安易に奥の院には足を踏み入れてはならないといいます。

何故ならば、ここは何度も伝えているようにあの世とこの世の境目。
亡くなった人を想ってここを訪れれば、もうそこは境目ではなく霊界。死者を想う強さから、あの世へ引っ張って行かれて意識が遠のくようなこともあるようです。
強い想いを持ちながら、ここへ来ることは危険かもしれません。
死者を思って訪れる時は、くれぐれもお気を付けください。

また、真っ直ぐ歩くつもりが、どうしても横道に逸れてしまい関係のないお墓の前で止まってしまう…という体験談も多いそうです。こんな時、真言宗では般若心経を唱えると体が軽くなると伝えているそうです

地続きの場所であの世とこの世が実際に交差する場所はどのようなものなのか…。
実際に出向いて確かめてみたい場所です。


さて、ここからは弘法大師に纏わる不思議エピソードなど書いてみたいと思います。

金剛峰寺には4.2メートルもある巨大な曼荼羅(まんだら)「両界曼荼羅:りょうかいまんだら」というものがあるそうです。
曼荼羅とは、仏教語で「集まったもの」「聖なる空間」日本に初めてもたらした曼荼羅だそうで、曼荼羅とは仏が規則正しく並んだ絵のことです。

この曼荼羅の中には血曼荼羅なるものが存在しておりまして、平清盛(たいらのきよもり)が描かせ寄進したといわれる曼荼羅で、実際に清盛の血液を絵の具に混ぜて塗ったと言い伝えられております。血曼荼羅は重要文化財に指定されており、美術展などで見ることができるそうですょ。

平清盛といえば「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた人物です。
平家物語によりますと、清盛は自分の頭部から血を抜き取り、その血液を絵の具に混ぜたと伝えられています。しかし清盛は何故血を注いでまで血曼荼羅を作ったのでしょうか。

戦の勝利のためだったのでしょうか…。

それとも、信仰の証だったのでしょうか…。


話は逸れますけど、血を混ぜて絵を描くという話で思い出した話を一つしたいと思います。画家が自分の作品の絵の具に血液を混ぜて書いた絵がある…という内容のテレビ番組が「仰天ニュース」でやっておりました。祖母から受け継いだというその絵は「苦悩に満ちた男」という絵で、自分の血と絵の具を混ぜたもので絵を描き、完成後その画家は自殺をしたそうです。その絵は呪いがかかっており、壁にかけていると話し声やすすり泣く声が聞こえるそうです。
なので、祖母は25年もの間その絵を屋根裏に仕舞い込んでいたそうです。

そして祖母が亡くなり、その絵を孫が相続。呪いなど気にしない孫は家に飾ると、子供が階段から落ち、妻は髪を撫でられ、すすり泣く声が聞こえ、人影が見えるようになったそうです。この様子をビデオに収めようと絵の前にビデオを置いて撮影。すると気味の悪い声や、煙のようなオーブが飛び、ドアがひとりでに閉まり、壁から絵が落ちるなどの現象がバッチリ映り込んでおりました。TVでの内容はここまででした。

お孫さんは誰かに解決法をアドバイスしてもらおうとYouTubeに投稿しました。すると大反響があり「専門家に見てもらった方がいい」との意見が多く、結局 専門家に検証してもらうことになったようです。

2013年5月、心霊研究グループは幽霊屋敷で有名なチリンガム城で城に住む幽霊にこの絵画の事を尋ねようと降霊術を試みたそうです。しかし、この城の幽霊は絵画の霊を嫌い激怒。ポルターガイスト現象を起こし、研究者グループを追い出したそうです。
この降霊術には20名ほど立ち会っており、全員が恐怖の体験をしたそうです。

霊にも嫌われる霊…(^_^;)

人間界のみならず、霊界でも好き嫌いがあるとは…。

死んでも死にきれませんね…。



さて、話を空海に戻します。

京都の志明院(しみょういん)で怪奇体験をした作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)〔猫丸のブログ・カテゴリ・不思議心霊の京都不思議な町No.7の志明院で司馬さんの怪奇体験を書いております〕は、小説「空海の風景」で空海と司馬遼太郎さんの不思議エピソードを高野山大学の講演で話したことがあるそうです。

司馬遼太郎さんが、空海について書いてみようと思ったのが昭和40年頃で、当時は「坂の上の雲」の執筆の準備をされていたそうです。
日露戦争の戦況を書く上で、一見瑣末(いっけんさまつ:瑣末とは、重要でない小さなこと)に思えた事実の確認をしていたそうです。綿密に詰めて行く作業は重要であるものの、司馬さんには苦痛であったそうです。

そんな時、司馬さんは「弘法大師全集」を読んでいたそうです。そこには真実ばかりの世界があり、そのお陰で司馬さんの精神のバランスが保たれていたそうです。
そして「坂の上の雲」を執筆中の1970年昭和45年の7月、いつものように妻のみどりさんと散歩に出掛けたそうです。そこで司馬さんは交通事故に遭ってしまいます。
妻のみどりさんの「司馬さんは夢の中1(中公文庫)」には、「向こうからやって来た車から撥(は)ねられ、道路脇の大きな石に思い切り頭をぶつけた」と書かれておりますが、失血はあったものの、眉間(みけん)を切る軽傷で済んだそうなのです。
すると司馬さんの見舞い客や電話の対応の忙しさからか、みどりさんの声が出なくなってしまったそうなのです。また事故のトラウマなのか、心に事故の恐怖が残ったのか、身体が震える…という後遺症が出たそうです。司馬さんは妻のみどりさんのこの様子を見て「ひょっとして頭を打ったのは俺でなくてお前だったんじゃないのか?」と冗談交じりに言ったほど、事故を起こした本人がピンシャンしていたそうです。

当時の事故をみどりさんは振り返りこう述べています。

「事故に遭った時、司馬さんはずっと空海の事を考えながら歩いていのですって。それにしては、私とあんなに喋り笑っていたというのに…。一体 司馬さんの頭の仕組みはどうなっているのでしょうね」と笑っていたといいます。

司馬さんは、空海に思いを馳せていたお陰で助かったのでしょうか。


さて、弘法大使が唐に留学していた頃は無名の僧でしたが、中国では当時最も位の高い恵果の弟子となり、また無名だったはずの空海が最も位の高い僧侶の弟子となり、中国西安の青龍寺には恵果だけでなく、空海の像や肖像画、そして記念碑まであるそうです。中国へはたった2年しか行っていないのに、どうしてなのでしょうか。
其れ相応の偉業を成し遂げたとしか考えられません。

仏教だけでなく、儒教、道教、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教まで勉強し、中国に留学中にインド語のサンスクリット語まで覚えたというのですから、この天才ぶりは、なんだか菅原道真さんと被りますね。

また、空海の修行した場所は中央構造線上に沿った鉱床(こうしよう:地殻中にある天然資源の鉱物)であり、ここで空海は錬金術(れんきんじゅつ:安価な金属から高価な金を練成すること)を習得したといわれております。
金属鉱床の富鉱(ふこう)地帯が、若き日の空海の足跡と重なるのだとか。
大きな仏像を作るため大量の金属が必要だったはずですし、天才空海は採鉱(さいこう)や冶金(やきん)についての知識や技術まで学ぶ必要があったと推測します。
金峰山から熊野にかけての山岳地帯という場所は修験道の中心地。高野山の中心が金剛峰寺であるということからも、なにか関係があったのかもしれませんね。

また、空海は土木技術としての功績も残しています。
それが満濃池(まんのういけ)です。周囲20キロという巨大な池の修築工事を空海が手掛け修築したというのですから驚きです。
宗教家としてだけではなく、様々な才能を発揮しました。
なにからなにまで、貪欲なまでに貪る知識量だったからこそ、一介の無名の僧が辿り着けた確かな地位だったのでしょう。

歴史上の重要人物は得てして謎も多く、空海もまた空白の七年間があるといいます。
記録が七年間もないとは摩訶不思議な話です。

しかし、重要人物の空白時間というミステリーは、人々の好奇心を揺さぶります。
空海は半端ない正直者だったとしたら、そういう点からも虚偽より沈黙を守ったのかもしれません。虚偽とは勿論何か重大な秘密でしょう。一体何を隠さねばならなかったのでしょうか。真実の歴史が出ない歴史は、何の意味があるのでしょうか。
そうはいっても、その謎を紐解く何かの暗号は隠されているのだと思います。

本当の歴史は驚愕の連続だと思いますが、そんな驚愕の真実こそ皆が知りたいこと。

けれど誰にも解らない真実だからこそ、興味も尽きないのですからこれで良いのでしょう。

好奇心が強く、また探究心が尽きない空海のその姿勢は、素晴らしい以外に言葉が見つかりません。

こちら高野山は、弘法大師が創り上げた小宇宙です。

でも弘法大師が最後に求めた真理は…多分宇宙そのものなのだと思います。








ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-04 23:30 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.14・京都と滋賀にまたがる比叡山…自然界と人間の欲望が入り乱れる山の全貌!


2015年2月3日、この記事を書いている今日は節分です。

節分は季節を分けて考えた日本の風習で、季節が移り変わる節日を指しています。
立春、立夏、立秋、立冬、それぞれの前日に1年に4度あったものが節分といわれていたのです。時が流れ次第に立春だけを節分とし、1年の始まりである新年の節分だけが残りました。なので現代の節分は昔は大晦日ということになります。

古来より表鬼門と裏鬼門、そこから鬼が通り抜けると信じられてきました。

表鬼門(おもてきもん)とは東北、十二支の丑(牛)と寅(虎)の間の方角とことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角で万事に忌むべき方角を鬼門と呼び、裏鬼門(うらきもん)とは鬼門とは反対側の南西の方角で、同様に忌み嫌われてきた方角です。

比叡山は京都と滋賀県・大津市の西部にまたがる山で、京都の鬼門に位置することから平安京を鬼から護る(災いや戦乱を鎮め平安に導く)鎮護の山とされてきました。


Wikipediaより。
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比叡山は古くは古事記において、日枝山と表記され大山昨神(おおやまくい(くひ)のかみ)の棲む山として記されていました。大山昨神とは、くい(くひ)とは杭のことで大山に杭を打つ神、即ち大きな山の所有者という意味で日本の神様とされています。

そんな比叡山全域には、天台宗の開祖である最澄(さいちょう)に開かれた本山延暦寺があり、比叡山は円仁、円珍といった高層を輩出しております。



Wikipediaより。
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ここ比叡山は古来から鬼が出入りする場所であり、それを食い止める役割として建てられた筈の延暦寺が、その後どのような経緯をもったのでしょうか。


Wikipediaより。
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天台宗の本拠地として古くから民衆の信仰が厚い山であると共に、比叡山は歴史の闇とも深い関わりを持つ山なのです。そして時は戦国時代を迎え、世俗を離れた僧侶達でさえ鬼たちに取り憑かれたと思える時代が到来します。

それは権力から寺を守る為、僧侶自らが武装し戦国時代を駆け抜けてるという事態に発展していったからです。

それが僧兵(そうへい)と呼ばれる古代後期から中世、近世の初頭にかけて実在した僧形の武者です。この呼び名は江戸時代以降に僧兵となりましたが、それ以前は僧衆や、悪僧と呼ばれていたようです。日本以外にも武装する集団として有名なのが少林寺ですが、ヨーロッパでは騎士修道会がそれにあたります。日本で有名な僧兵といえば、武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)ですね。弁慶は「義経記:ぎけいき」などで活躍する人物ですが、実在する人物としての経歴は確認されておりません。伝説では義経(よしつね)を護る為、敵の矢を満身に受けながら、立ったまま死んだとの逸話があります。


Wikipediaより。
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Wikipediaより。
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騒乱を鎮めるはずの比叡山、厄災を降り祓う役目の延暦寺が、騒乱や俗世権力誇示の舞台となってしまった背景は、やはり鬼門という鬼が出入りする場所だったからなのでしょうか。

人間がどんなに修行を積んでも、やはり欲には勝てなかったのでしょうか。
無欲はこの世で1番難しく、あり得ないことなのでしょうか。

やがて延暦寺は欲深い因果が渦巻く場所と化してしまったようです。

10世紀、延暦寺は最澄(さいちょう)の跡目を受けた延暦寺を本拠とする円仁派と、山を下りて円城寺に拠点を構えた円珍派に分かれ対立が激化していきました。
抗争が繰り返し勃発し、次第に争いは僧侶でありながら人を殺めるまでとなり、その禁忌を破り勢いがついた様は、次第にエスカレートし激しさを増して行ったそうです。比叡山は想像以上に人の血を吸った忌まわしい場所と化しました。聖職者同士の血みどろの抗争が、やがて僧兵が誕生した由縁にもなっています。

聖職者でありながら、人の欲の権化と化した僧侶達は、人を殺し女性を抱き、肉を食べるという振る舞いで堕落していったとされています。聖職者という立場を利用し、俗世以上に欲にまみれた生活となっていったようです。

それでも尚、比叡山は民衆にとり鎮護の山であり聖なる地でありました。
民衆はそう願い、見て見ぬ振りをしたのでしょうか。
聖なる山が穢(けが)れある人間さえも隠すように、民衆には僧侶達の真実の姿からは程遠い姿に映るとは、摩訶不思議なことです。
悪事千里を走る(あくじせんりをはしる)と申しますが、噂にはなってたと思いますが、この世でよく見られる「まさか!」という思いから、僧侶が俗世的になる事が信じられなかったのでしょうか。

寺社は武家とは違い、統一的な権力はありませんので僧侶達も最初は身を守るのに必死だったのでしょう。武力には武力で応じるしかないという選択肢になるのも戦乱の世では無理もない話なのかもしれません。場所的に見ても北の御前などに敵を持った政権には大きな軍事拠点であったことから、軍事上確保したい場所でもあったはずです。
最初は本当に防衛の意味しかなかったものが、次第に欲と権力に取り憑かれたのでしょうか。防衛とすれば大義名分もたちますけどね。

僧侶は天罰を盾に、呪詛を刀に時の権力に立ち向かえる強みもあったかもしれません。

また、もともと比叡山は資本力があり、人材にも事欠かない現状だったそうです。
なので権力に立ち向うだけの相当な力を持っていたと考えられます。

1600年頃には、武家政権や朝廷と並ぶ三大勢力にまでにのし上がる迄になっていたそうです。古代からどの国でも祈祷師や僧侶の地位は高かったですが、時の権力と真っ向勝負をするようになるのは日本だけではなかったようです。

比叡山僧侶の勢力拡大と堕落ぶりは凄まじく、権力が大きくなったせいも手伝い、時の権力者達も安易に諌めることも出来ない状況に手を焼いていたそうです。

白河法皇(しらかわほうおう)がこの世のままならぬ事として挙げたのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師」と だと言っております。山法師とは比叡山の僧侶のことです。当時の権力者がうたうほど目に余る存在となっていたのは明らかだったようです。

そんな中、延暦寺の愚行を赦さない人物が現れたというのです。

それが室町時代中期、6代目将軍足利義教(あしかが よしのり)です。意外と知られていないようですが、最初に政治的に延暦寺を追い詰めたのは足利義教です。比叡山に対し幾度も制圧を試みる行動を取っています。それは義教が将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山の長であり、その後は弟を延暦寺の座主に据えるなど利権の奪取を策謀していたと思われます。その制圧の仕方が鬼神の如く残虐で、延暦寺の僧侶を誘い出してはその首をはねる…ということを繰り返し対立姿勢を見せ、これに反発した僧侶達が義教を激しく非難しましたが、それでも頑なに僧侶の意向を受け入れない義教の態度に多くの僧侶は絶望し、自ら寺に火を放ち焼身自殺を遂げたそうです。

延暦寺が燃え盛る炎は京の都からも見えたそうで、世間は騒然となったそうです。
義教は比叡山について噂するものを悉く斬首するとお触れを出し、民衆を権力で黙らせたようです。これが元僧侶のやることなんですから、恐ろしい限りです。義教もまた悪鬼に取り憑かれた一人だったのでしょう。

しかし、そんな延暦寺を制圧した足利義教(あしかが よしのり)が殺害されると、再び延暦寺の僧侶達は武装してその勢力も数千人規模にまで拡大させ勢いを再び吹き返したそうです。

それがまた1499年には再び細川政元に襲撃され焼き討ちに遭います。

それでも尚、僧兵の勢力は壊滅せず、延暦寺も再び力をつけて応戦。

その勢いを徹底的に弾圧した人物こそ、あの織田信長だったのです!

1571年、信長は延暦寺を囲み焼き討ちにしました。この焼き討ちにより延暦寺の建造物は悉く炎上、数千人の死者を出したと伝えられています。女子供も容赦無く首をはね油をかけられ火矢を放たれ焼かれたと伝えられています。
この時、信長にはオルガンティーノという異国人が常にそばにいたそうです。
この男はイタリア人のイエズス会の宣教師で、オルガンティーノという異国人が来て以来、信長は変貌したといわれています。
オルガンティーノと信長は仏教を根絶やしにするという約束を交わしていたようです。
信長もまた、この比叡山の鬼門の鬼が取り憑き鬼と化してしまったようです。
幾多の人間の命を平気で奪えるなど、所詮人間だけの業だけではやり遂げられぬものです。鬼と化す…これなら人間でも悪鬼と化しあれだけの人を殺める事が可能だったと思います。

この焼き討ちにより著しく勢力が衰えた延暦寺にトドメを刺したのが、あの豊臣秀吉政権による刀狩令です。

刀狩令とは、農民の武器所有を禁止するだけでなく、徹底的に没収することで武装解除させ兵農分離を図った制作のことです。
大義名分は取り上げた武器を大仏の釘の材料にすることで、民衆の救いとする為だとしたのです。寺社勢力に武装解除させ反乱を抑える目的としたのでしょう。

当時の寺社の勢力は、個々の寺社で各自の武力を持ってい為、同時期に蜂起が生じれば収拾は難しかったといえます。
しかし、この大義名分を掲げられては、寺社勢力も安易に反対できずに解除する以外に選択肢はなかったようです。

この刀狩りは武家政権、朝廷、寺社勢力を無力化し武力拡大は次第におさまり、天下平定を見事に成し遂げたそうです。江戸時代になると時代も安定し、次第に僧兵は姿を消していったそうです。

聖職者でありながら俗世的武力や肉欲を貪(むさぼ)り、統一拠点を持たぬまま不気味に攻撃力を拡大していった寺社勢力の生臭さは、現代も政治との癒着の絶えない関係や、暗黒社会との繋がりもあると噂される寺社だとの噂もありますが、現在も鬼門の影響を大いに受けながら民衆の目を仏閣という盾で欺いているのでしょうか。

人の強欲は鬼の餌です。鬼の大好物です。

そんな強欲に取り憑かれた人間の心が鬼の餌食になってもそれは因果応報です。

欲に飢えた人間なら寧ろ鬼を味方につけ利を得たのかも知れません。

悪人世にはばかる…悪鬼の力を得て成し得る力なのでしょう。

人として生まれれば大抵は善なる心を持ち合わせております。
なのに分不相応の欲にまみれ、悪に手を染めれば善なる者は必ず後悔するものです。
心が鬼と化さない限り、中途半端な悪は己の心を苦しめる元となります。
心が悪に同化した人は、自らの悪行で己が苦しむことなどないからです。
1番に苦しむのは、善の心を持ちながら悪行に走る人です。
善なる心を持っている人は、やはり善に生きるのが分相応です。

因果応報(いんがおうほう)は悪いことだと勘違いをされている方が多く、また悪いことの意味として使用される事が多いのですが、因果応報とは悪いことばかりではありません。全ては己が起こす言動が未来に影響を及ぼすことであります。
ならば善因善果(ぜんいんぜんが)の善(よ)い行いは良い結果を生み更なる良い形に繋げることが可能だといいます。良い因果を作り良い因果の応報で人生を過ごすのが健全だとは思います。

因果の因は、因縁の意味であり原因のことです。因果の果は結果を意味します。元々は仏教用語で善悪に応じて、その報いがあることを指しています。仏教では、因果応報は人間の行為に関する結果をいい、自己が為した原因が何の結果ももたらさないとする見解を因果撥無(いんがはつむ:撥無とは否定の意)の邪見と呼び、そのような人は決して悟りを開ける能力がない断善根として強く非難してます。

人の解釈は人それぞれですが、自分の行う行為が結果に繋がる因果応報のシステムは理解すべきところだと思います。

何事も人や物事のせいばかりでは、なんの解決も進展もありません。
また悪に流されても人のせいになってしまいます。例え抗えぬ悪に流されても、それは自分の持つ弱さからの選択肢です。

欲や弱さに立ち向かう、または覆(くつがえ)す勇気は尋常では叶いません。

これらに打ち勝った記憶こそが、善でありそれが善因善果でしょう。

どちらを選んでも自分の選択肢です。









ほな(=゚ω゚)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-03 19:25 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.13 養源院 現代に続く血染めの天井板供養。


みなさま 血天井というものをご存知でしょうか。

字だけを見れば「血」という文字から、なにかしらの「いわく」を感じると思います。

血天井とは、自害などで流れた血痕の跡がくっきりと残る床板を、寺院などで天井として使用することで供養を行うものです。

全国各地に今も残る血天井ですが、今回は京都の養源院に絞りご紹介します。

養源院は、京都市東山区にあります浄土真宗遺迎院派(じょうどしんしゅう けんごういんは)の寺院です。三十三間堂の東向かいに位置するお寺です。


Wikipediaより。


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こちら養源院は、戦国時代浅井長政と戦国一とうたわれた織田信長の妹、お市の方との間に生まれた三姉妹のゆかりの地でもあります。

三姉妹とは、長女、茶々(淀殿)初(常高院)江(祟源院)の、3人ですね。

養源院を創建したのは、淀殿です。

当時 淀殿は豊臣秀吉の側室となっており、前年には待望の男児である秀頼を出産しておりました。

父である浅井長政の21回忌供養の為にと秀吉に願い出て創建されました。

当時は側室側の実家の菩提寺を建設することは珍しく、寺の名は浅井長政の院号に由来します。しかし、1619年に火災で消失しますが、その4年前の1615年には大坂夏の陣にて、淀殿と秀頼は大阪城にて自害しております。これで豊臣家は滅亡してしまいます。

その後1621年に再興したのが三女の江で、この時、徳川二代将軍 秀忠の正室になっていました。豊臣に嫁いだ姉が建てた寺を、豊臣を倒した徳川に嫁いだ妹が再興して、江戸時代になると徳川家の菩提寺になるという、なんとも不思議な因果のあるお寺で、それが養源院の由来です。

そして、この養源院には血天井が供養の為に祀られております。

自刃した武将やその家族や家来達の血で染まった床板は、現代に於いてもくっきりと消えることもなく、何百年と赤く残っているのです。

古代の染み込んだ血液が、こんなにキレイに残るものでしょうか…。

何百年も消えない血痕は、思ったほどドス黒くないんですね。

更にこの血天井には、血で染まった人の手形や、足の跡、または顔のようなものまで映し出されているというから驚きです。

よく見ますと、確かに手の跡とかありますね…(^_^;)



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朽ちることなく今も残るその血は、無念の証なのでしょうか…。

養源院で血天井の説明を受けた方によりますと、長い棒で天井を指して「ここに、こうやって鳥居元忠公の顔が…」と説明してくださるそうですょ。

こちらで血天井の供養をするには、それ相応の理由があったそうです。

鳥居元忠(とりいもとただ)という武将がおりました。

この武将は徳川家康月まだ幼き頃、今川家に人質にだされていた頃からの側近であり、陰謀渦巻く戦国の世の中で、家康から見て、ただ一人信じることの出来る人間でした。

豊臣秀吉が1598年8月18日にこの世を去って2年後の1600年、家康は豊臣家 家臣の石田三成と激しく対立しておりました。そんな折、家康が会津の上杉家を討伐する為に、畿内を離れる事になりました。一説にはこの時、三成に背中を見せることで、挙兵させておびき寄せる為の策であったともいわれております。

出兵前の6月半ば、大阪を出た家康は、伏見城で元忠と酒を酌み交わし元忠に全てを託します。大阪の三成が挙兵すれば、真っ先に襲来されるのは伏見城であることは誰の目から見ても明らかでした。しかし、多くの兵を残さず、ここを捨て石にしていくことを家康は詫び、それに対して老臣はこう述べました。

「天下の無事であるならば、自分と松平氏で事足ります。将来 家康様が天下を取る時、一人でも多くの家臣が必要です。ここに三成方の大軍がやって来たならば、火をかけ討ち死にするしかありません。なので、多くの兵をここに残すことは無駄。従って一人でも多くの家臣をこの城から連れ出してください」と…。

2人は夜遅くまで語り合い、別れを決意したのでした。

そして、7月半ばに三成が家康に伏見城の明け渡しを要求。伏見攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋。総勢約4万の兵が城を取り囲みました。

19日、総攻撃が始まると、対する元忠の兵力は僅かに1800名。

それでも死力を尽くして元忠は奮闘。思わぬ反撃に西軍は手こずり、場内にいた甲賀衆(こうがしゅう:忍者)の裏切りにより、伏見城が炎上してしまいます。

死地にいた元忠は8月1日、ついに最期の時を迎えます。本丸にいた鳥居家の家臣およそ350人余りが討ち死に、または自刃。壮絶な最期を遂げたそうです…。

この知らせは8月10日、家康の元に届きました。

家康は三成との対戦を前に屍を弔ってあげることもできず、涙を飲んで9月15日、関ヶ原の合戦を迎えたそうです。そして、石田三成を打ち破ることができたのです。

戦後、伏見城で壮絶な最期を迎えた元忠を、家康は忠臣として讃え、そして忠臣らの血で染まった床板を各地に送り供養の為に寺院などで再利用することに決めたのです。

その一つが徳川家の菩提寺となった養源院なのです。

養源院の本堂の天井には、忠臣らの心があるとして、床として使用するのではなく天井の部分に使われたそうです。彼らの魂を成仏させる為に、日夜読経が流れる寺院は最適な場所。

それが「血天井」なのです。

分けられた血天井は全国にありますが、京都市内では左京区の宝泉院、北区の正伝寺、同区 源光庵でも供養されております。

この伏見城の攻防戦を皮切りに、三成は畿内やその周辺へと軍勢を展開させて、ここから天下分け目のけた関ヶ原の戦いに突入することになるわけです…。

戦国時代に生きた人々は、明日をも知れない死を覚悟して生きた時代。

主君の盾となり槍となって死ぬことは「武士(もののふ)の誉(ほま)れ」だと言い切って死ねる時代。

現代とは死の覚悟が違います。

この時代における武士が腹を切るという行為は最も崇高な行為だとされておりました。

死ななきゃならない立場に立たされてるのに崇高な行為である…とか猫丸にはよく分かりませんが…。

しかし現実は、実際腹を刺したくらいでは直ぐには死ねないそうです。

腹を一突き刺しただけでも激痛で動けないといいます。

そこから更に腹を横に一文字に切ることなど至難の技。なので介錯が付くんだと思います。また、腹を刺したくらいではこと切れるまで長い時間がかかり、なかなか死ねないのです。

激痛でのたうち回る姿は残酷ですし、切腹を美徳した姿とは程遠かったので、介錯で早く死に至らせる必要があったのでしょう。

戦国時代は、腹に短刀を当てたり刺したりした時点で介錯(かいしゃく:切腹に際し苦痛を軽減するために行う斬首)がなされていたそうです。

介錯がない場合は、腹を刺した後、頸動脈を切り失血死するしか絶命する方法はなかったようです。

ならば初めから首をはねて貰えばいいじゃないか…と思いますが、それは違うようです。

切腹は日本の武士道文化であり、腹を切ることに意味があるそうです。

武士道では腹部には霊魂と愛情があるという古来からの信仰なのだそうです。

肉体的な自害ではなく、魂の自害ということになりましょうか。

身分ある武士にだけ許された切腹。武士道といつ誇り高き特権階級に与えられた死だったようですが…。

それは本当は、魂まで抹殺させる行為だったのではと猫丸は考えております。

しかし、驚いたのはやはり古代から魂が腹に宿ると知っていた…ということです。

実際、生きている人間に宿る魂が鎮まる場所こそ、腸のあたり(ヘソ)だと猫丸は感じています。

人が亡くなる間際、魂は腸のあたりから浮き上がり、肉体から出て行くからです。

おへその辺りに力の入っていない人は魂が浮き上がっている人が多く、そんな方は元気のない方が多いです。

腹に力を入れる…気合を入れる時は必ず下腹に力を込めますよね?

これを霊的に見れば、魂をよりしっかりと肉体内部に治める行為を人が無意識にやっている行為なのです。

これは自分を守る行為であり、なんらかの理由で浮き上がってしまった魂を元の位置に収める生理的調整なんですよね。

魂が浮いた状態の方は、死の間際の方、病気の方、元気でない方や、精神が安定していない方に多く見られ、このような方々は普段の生活の中で下腹に力が入いりません。
そんな時、魂は浮き上がっている状態です。

魂が浮き上がってしまっているのですから、元気が出ないのは当然です。

姿勢の良い人は元気ですよね?

それは姿勢を正す格好は下腹に力を入れなくてはならず、意外と大変なことだからです。この姿勢を正す行為が魂をしっかり鎮座させることになっている訳です。
人間はこのようなことを潜在意識下で知っているのでしょうね。

頑張ろうとする時、必ず下腹に力が入ります。また、下腹から声を出す歌うという行為は下腹に力を入れる行為ですから、魂が安定します。元気でない方は、腹に力を入れる事が困難です。なので逆に元気が出ない人は、下腹に力を込める行為を心掛けるだけでも元気になります。それは浮き上がった魂がしっかりと元の位置に戻るからです。

普段から姿勢を正して下腹に力を入れて置くことは、何よりの健康法であり元気の元になる行為です。

医学では血液は骨髄で造られている…というのが西洋医学の常識ですが、血液は腸で造られるとした千島学説を知った時に、やはり魂のある場所で血液は造られているのか…と思いました。

人間の身体の中で、最も重要な場所が腸だと個人的には思っています。

なので、腸を手術れた方は、なかなか良い状態で長生きは難しいと思います。

現実に腸の手術された方を数十人知っておりますが、術後の状態は悪化しかありませんでしたし、それが元で次々と新たな病気を発症させていきました。

その数十人の方は、術後数ヶ月から数年で全員が他界されています。

検証としては事例が少なすぎますが、腸の手術は寿命を縮める可能性がとても高いように思えます。

切腹は高級武士にしか許されないとされておりますが、それは霊的に視れば因果ある相手を切腹に追いやる行為ですから、魂の再生さえ許さない因果応報だと言わざるを得ません。

実際には腹を切った所で魂は見えないんだから切れないと思うのは当たり前ですが、霊的にいえば切れるんです。

例えば腕や脚を失った方々は、無くした部位が痛むという現象が実際にあります。

話が長くなりますので、この辺にしておきます。

さて、伏見城で壮絶な死を遂げた鳥居元忠の首は大阪城京橋口に晒され、元忠を慕う町人達に供養され百万遍の知恩寺に現在もそのお墓はあります。

知恩寺は浄土宗の開祖、法然上人が創建したとされております。

この知恩寺ですが、京大と今出川通りを挟んだ場所に位置し、毎月15日に手作り市を開催することでも有名です。

猫丸も何度かこの手作り市には行っておりますが、沢山のお店が出店されていて、とても賑わう手作り市です。

知恩院もまた七不思議伝説の残るお寺。

またいずれ ご紹介したいと思っています。



ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-02-02 15:50 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.12・上御料神社・戦国時代はここから始まった!

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上御料神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社で、下御料神社と対応するもので、現在の正式名は「御霊神社」としているそうです。



Wikipediaより。
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この上御料神社の境内では、よく写真撮影が行われております。
最近京都では、結婚式の前撮り写真を京都の神社仏閣で撮影する会社が増えており、
またそれを望むカップルさんも多く、値段も比較的安いことから神社仏閣での写真撮影は人気があるようです。絢爛豪華な衣装に身を包んだ美しい花嫁さんが、愛する旦那様とご一緒に、これからの未来を思いニッコリと微笑んでいる風景は、側で見ているだけでも幸せを感じるのですけどね…。

この神社は観光客も少なく、撮影にはピッタリな場所。

そんな、これから人生を共にする二人が撮影しているこの場所が、一体どういう場所かを知ってしまったら…と要らぬ心配をしてしまいます。

そんな風に思うには、思うだけの訳があるんです!

実はこちらの上御料神社は、日本に戦国時代を巻き起こした原因である、あの応仁の乱の勃発地なのです…。歴史上、とても業の深い場所で人生を始めるお二人がどのような道を辿るのでしょうか…と、つい心配になります。歴史を無視して無知であれば、知らぬが仏で済むかもしれませんが、知れば輝くような笑顔が引きつることになるかもしれません。

なので独身の方は頭の隅にでも記憶しておいてくださいませ。
幸せなカップルの前撮り写真の場所としては相応しくありません。

人の世むなしい(1467)応仁の乱…と習いましたよね。

そうなんです。ここはそういう場所なんです。

ここから数え切れぬほどの人の血を流すキッカケとなった場所なのです。

しかし、もっと以前にこちらには祟りをなす御霊が祀られています。
政争などに巻き込まれ恨みを抱き非業の死を遂げた人々の魂を鎮めています。

祟道天皇、早良親王、光仁天皇の御子、垣武天皇の同母弟、井上大皇后、光仁天皇后
他戸親王、藤原大夫神、藤原広嗣、橘大夫、橘逸勢、文大夫、文屋宮田麿、吉備聖霊
菅原和子、など。いずれも怨霊の神々で御霊神社は怨霊を慰撫(いぶ:なだめる)する為に建てられました。

疫病が蔓延したのは、これら御霊の祟りだとされたのです。

そしてこのような御霊鎮めを行う筈の場所から、歴史を変えるほどの戦が始まったわけです。応仁の乱は、1467年1月17日、こちらの御霊の森で菅領(かんれい:室町幕府の職名)畠山家の家督争いが始まりました。これが11年にも及ぶ長い戦いになろうとは、この時点では誰も予想だにしなかったことでしょう。

勢力争いとは恐ろしいものです。

菅領とは、将軍を補佐する権限を持つ有力武家のことで、その一つである畠山家では少し前から義就(よしなり)と従兄弟の政長(まさなが)とが跡目争いを続けておりました。当初は劣勢だった政長が、幕府の菅領を3度も務めた細川勝元を頼り、次第に有利に戦が運んだそうです。すると今度は義就側に、勝元と不仲だった大名の山名宗全(やまなそうぜん)が応援に参戦。畠山家の家督争いが、日本を代表する守護大名同士の戦いにまで発展してしまうのです。
応仁元年1月2日、ついに義就が時の将軍・足利義政から畠山家を正式に継ぐ者として認められます。これには山名宗全が裏から手を回し、将軍の妻・日野富子に働きかけていたのです。これに不満を爆発させたのが政長です。
自邸に火を放つと17日、この上御料神社の林に約2000もの兵を率いて陣を張りました。翌日早朝には、これに義就が3000余りの兵で攻撃、就実激しい攻防戦が続いたそうです。この時、義就方には、巨大勢力の山名宗全が加勢しましたが、政長が頼みの綱とする細川勝元はここでは静観し、まる1日の合戦の後、政長方は敗退してしまいます。
これが応仁の乱の最初の合戦でありました。

これで決着がつけば時代の流れも変わったのでしょう。けれど、運命はそうやすやすと変えることはできなかったようです。

事態はもう既に引き返せなくなっておりました。畠山家だけの問題ではなくなっていたのです。折り悪く足利将軍家の跡目争いまでもが絡み合い、対立していた細川、山名の両陣営は、戦闘態勢を固め、五月には上京を中心に全面戦闘に突入することになってしまったのです。

なんじゃそりゃあ!

ってな戦いの幕開けです…。

細川勝元率いる東軍は、室町御所を本陣として、御所を中心に御構(おんかまえ)という防御陣地を築きます。北は寺之内から南は一条、東は烏丸、西は小川通という広範囲に渡った。ここに勝元は、帝や公家、武家、町人を避難させ守っていたといいます。

対する山名宗全は、勝元の本陣の西側約500メートルにある自邸を本陣とし、花の御所に張られた勝元の本陣の西側に作った西軍本陣が西陣織で有名な西陣という地名の由来です。山名邸があった堀川今出川付近には、山名町という町名が現在も残っています。

応仁の乱で平安京の町には至る所に傷が残りました。特に南禅寺付近や東岩倉山、相国寺、船岡山の合戦などで付いたものだそうです。

茶道の聖地である小川通寺之内付近にある百々橋(どどばし)の戦いも有名。清水寺や建仁寺など、名だたる寺院が皆消失しています。その後は徐々に山科や醍醐、島羽などの洛外での戦いが増えて行き、やがて地方に広がっていったそうです。
戦いの最中、細川勝元と山名宗全が亡くなってしまいます。
すると、待ってましたとばかりに(たぶん)諸大名たちは引き揚げを決意し、1477年戦は終わりを迎えましたが、11年にも及ぶ長い長い戦いに、結局明確な勝敗はつかなかったのです。それところか長く続いた戦で有力諸候が没落するなどして、様々な事柄を変化させました。

しかし、11年も戦えた財力は凄いですね…。
無念の無駄に終わりましたけど…。

戦国時代は壮絶な親子喧嘩や親族争いが多く、親族同士で血を流すなど恐ろしい限り。
お金は因果応報を巻き起こす元であることは火を見るよりも明らかです。
勝っても家が没落とは因果が深すぎます。
応仁の乱は大義名分が無い分、ややこしすぎなんです。
この地はもともと家督争いで憤死した御霊ばかりが祀られる場所。
そんな因果が戦乱の世に導いたとしても何の不思議ではありません。

人の欲は恐ろしや〜。そこまで欲しい争いの元。
お金だけではありません。地位や名誉も争いの元です。

例え親御さんのお金であっても自分の物ではありません。
ご自身の立場の分相応のお金を持つのが幸せを維持できるものです。
お金はご自身で稼ぎ出しましょう。
財産が貰えると思って貰えなかった時は、必ず親を恨んでしまいます。
親御さんが居たからこそ、この世に生まれることが出来ただけでも御の字の筈。
お金が人の心を変えるなど言語道断。ましてや自分を産んでくれた人を恨むなど本末転倒。お金の因果は生きてる限り続きます。

どうぞ親御さんのお金をあてにするような心はお捨てください。

お幸せなカップルさん、欲深い因果がテンコ盛りの土地には来られません様に。
こちらで写真撮影されてしまったカップルさんは、夫婦生活の下克上にだけは呉々もなりませんように。逆にこのような歴史背景を逆手にとって反面教師で学んでください。夫婦生活を忍耐強く、仲良く永らえて欲しいと願います。

戦いは無意味です。戦うならば己の弱き心と戦いください。

その戦いだけは、大いに意味があります。

呉々も欲の権化だけにはなりませんように…。

心が鬼と化してしまいます。

人間が鬼になってはなりません。自分が苦しむだけです。

人間は人間の心でいてこそ、幸せなのですから…。





ほな(=゚ω゚)ノ

by neko_nezumi | 2015-01-31 13:21 | 不思議 心霊 | Comments(0)


京都・摩訶不思議な町No.11 北野天満宮・天変地異を巻き起こしたのは道真なのか?



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画像Wikipediaより。



京都市 上京区にあります北野天満宮は、菅原道真を祀った神社です。

本殿、拝殿は国宝に指定され重要文化財を多数保有している神社でもあります。

日本史で習う「白紙(894)に戻そう遣唐使(けんとうし:日本から唐に派遣した外交使節のこと)」寛平6年(894)遺唐使廃止を唱えた人が祀られており、それが頭脳明晰で知られた菅原道真です。

頭脳明晰だったといわれる菅原道真がこちらは祀られていますので、学問の神と崇められ、受験シーズンになる梅の花が咲く頃、ここは受験生でいっぱいになります。

しかし菅原道真は、祟徳天皇や平将門と並ぶ怨霊として恐れられる一人なのだとご存知でしたでしょうか。

菅原道真(すがわらのみちざね)は宇多天皇に仕え寛平の治を支えた1人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇進したのにも拘らず、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)に讒訴(ざんそ:虚偽の告訴)され、太宰府(だざいふ)へ、濡れ衣を着せられたまま左遷(させん)され、道真の子供達は流刑。太宰府で失意のうちに亡くなりました。
道真の死後、京の都に天変地異が多発したことから、道真が朝廷に祟りを為したとされ、天満天神として信仰の対象となった…とザッとはこのような内容なのです。

政治の中心で活躍した道真が、政治から遠ざかったにも拘らず何故学問の神として祀られるようになったのでしょうか。

道真の波瀾万丈の人生を振り返ってみましょう。

学者の家に生まれ育った道真は、幼き頃より優秀で詩歌の才能までにも恵まれたといいます。超難関試験に一発合格を果たし、人を教える立場になっていきます。その才能は学問に留まらず、行政官の国司としても活躍、宇多天皇の目に留まります。
真面目で勤勉だった道真は、宇多天皇が譲位し醍醐天皇の御代になっても道真は起用され続け、藤原氏のトップであった藤原時平に次ぐ右大臣にまで出世をしたのです。
そして2年後の57歳になった道真は、公卿(くげ)としては最高位となる従二位という官位まで授けられるほど出世をしました。
これほどまでの出世劇を周囲の人間たちは快く思うこともなく、やっかんでいたのでしょう。中でもライバルだった左大臣の時平は、何かと道真に因縁を吹っ掛けていたようです。互いに相容れぬ関係が続く中、901年に道真は、時平の陰謀で「謀反:むほん(反逆すること)の疑いがある」として無実の罪をかけられ、九州の太宰府に左遷されてしまいました。従二位という位を与えられて、たったの20日後であったそうです。

太宰府に流されることになっても国家の安泰を願い天拝山(てんぱいざん)という山に登り、天の神々にお願いしたそうです。この時に「天満大自在天」の称号を得たと言われています。そんな中、京都に戻れぬままその2年後に、失意の内に59歳で亡くなってしまいます。

道真の遺体は牛車に乗せられ太宰府の北東・三笠郡の辺りに運ばれましたが、遺体を運んでいた牛が急に動かなくなったそうです。その場所が「安楽寺」というお寺の前で、道真の弟子が仕方なくその場に埋めて祀ることにしたそうです。
これが九州にあります太宰府天満宮となるわけです。

道真の死後、道真を追いやった時平は政権を掌握(しょうあく)しました。

比叡山延暦寺の第13代座主(ざす:1番偉い僧侶)の法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)の目の前に道真の霊が現れて、「今から私を左遷に追いやった者たちへの報復の為に祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでかださい」と告げました。

これに困った法性房尊意は「天皇が直々に3回もお願いしにいらっしゃれば、応じない訳にはいきませんよ」と冷静に答えたそうです。
これを聞いた道真は、もっともだ…と返事に困っていた姿を見た法性房尊意は、怨霊となった道真の気持ちを鎮める為にザクロの実を道真に食べさせますが、道真は食べたザクロを炎にして吐き出し、自分の怒りをあらわにしたそうです。

ここからです。道真の本格的な復讐劇が始まったのです。

道真を左遷させる陰謀に加担した中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)は40歳で急死し、道真の左遷が決定した際に醍醐天皇(だいごてんのう)に直訴する為に駆け付けた宇多上皇(うだじょうこう)の行く手を阻んだ藤原菅根(ふじわらのすがね)は雷に打たれて死亡。また、道真を左遷に追い込んだ張本人である藤原時平(ふじわらのときひら)の両耳からは、蛇に化けた道真が現れ、その蛇を退散させる為に祈祷させますが効果は一切なく、更に怒り狂った道真に「控えよ!」と一括された僧侶達の方が退散してしまい、その結果、道真の怒りの炎にまかれた時平は狂い死にしてしまいました。また、貴族達の集団職務放棄を策謀した源光(みなもとのひかる)は、狩の最中、底なし沼に馬ごとハマり、遺体も上がらずそのまま行方知れずとなり、醍醐天皇の皇子の保明親王(やすあきらしんのう)は21歳の若さで急死。更には、保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった保明親王の子供であった慶頼王(よしよりおう)が、たったの5歳で急死をしてしまうと災難が次々と起こったのだそうです。
更にその後も左遷に関わった関係者達が、次々と亡くなったようです。
そして、時平の子供達も幼くして亡くなってしまったそうです。
左遷に加担した人々が次々と死に行く中、平安京は大火が続出し、水疱瘡が大流行し平安京には死体が散乱していたそうです。また、渇水や洪水、咳病と次々と天変地異が起こり、死体は山のように積み上げられたそうです。

左遷を手伝い陰謀に動いていた者は、さぞかし生きた心地はしなかったでしょう。
恐ろしい日々に心を悩ませていたに違いありません。

ここで漸(ようや)く朝廷が動きます。道真の怨霊を鎮める為にと、道真を太宰府へ左遷するという命令に関係した全ての書類を焼き払い、道真の名誉回復を図り、右大臣の位に戻すだけではなく、官位も以前より高い正二位を贈りました。
その儀式を行う最中、書類を焼いていると、その火が周囲に燃え移り、その場にいた僧侶や役人数名が焼死するという事態がおきました。その後、京都だけではなく国内中に飢餓や干ばつが相次ぎ、京都も干ばつ被害が拡大、その為の対策会議を開いている最中(930年、6月午後1時頃)に、会議場であった清涼殿に落雷し、大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)など、5人の貴族や女官数名が死傷するという事態にも見舞われ、これは道真の怨霊のせいだと恐れおののき「道真は雷神となって、この日本に神罰を与えようとしているに違いない」と噂され、朝廷をはじめ京の都は大パニックとなります。

地獄のような惨劇は、平安京を恐怖のどん底に突き落としました。

この落雷事件発生を境に醍醐天皇は体調を崩してしまいます。
そして、天皇の位を僅か八歳の皇太子寛明親王(ひろあきらしんのう)に譲り、朱雀天皇が即位し、譲位1週間後、醍醐天皇は46歳でこの世を去りました。

その後、時平の長男である藤原保忠(ふじわらのやすただ)も病に伏せ、僧侶に祈祷をさせている最中に、経の言葉の中に「宮毘羅大将:くびらたいしょう」という言葉を「我を縊る?(われをくびる)」と聞き違え、その場で狂い死にしてしまいます。

恐れおののいた結果、言葉を聞き違えて狂って死ぬとは、その恐れようが分かりますね。

その後も天変地異は続き、天慶の大地震(推定マグニチュード7)にも見舞われました。以来、大災害が起こる度に天神様と信仰して、道真の恨み鎮めを行ってきました。

そんな中、時平の弟で藤原忠平(ふじわらのただひら)だけは何事もありませんでした。忠平だけは、道真に励ましの手紙を書いて送っていたそうです。
なので、彼だけは道真に祟られることはありませんでした。それどころか忠平はその後、摂政(せっしょう)関白となって、藤原北家を支える存在となるまでに出世し、怨霊騒ぎでライバル達が次々と亡くなり、何の心配もなく出世街道を歩けたようです。優しさが仇となるのは、それが真実の優しさではなく心に邪心があるからでしょう。
日頃から心優しき善なる心は、やはり人の心に叶うものです。

もともと人間は自分勝手な生き物。なので敢えて優しい気持ちを持つくらいが丁度良いと思います。優しい気持ちが相手に届けば、忠平のように棚ぼたな人生となるような、幸福に見舞われるというものです。

平安京は道真の怨念を恐れ、夜は一歩も外へは出なかったそうです。
昼でも人の往来はまばらだったそうです。
話に尾ひれが付き怖くて歩けなかったのでしょう。

都で続いた天変地異に平安京の人々は「ああ 右流左死(うるさし)」と嘆いたといいます。現代用語に置き換えてみますと、右流左死とは「うるさい」とか「やかましい」という意味ではありません。これは京都で続いた災いから耳を塞ぎたい、何も聞きたくないという、畏怖の気持が大きくあったのではと推測されます。

完璧すぎたオールマイティな才能を持った道真は、妬まれ陥れられた…。

いつの世も、人を羨み、人を憎み、人を呪い、人を陥れ、最悪殺害など…と人間の性からの業は尽きませんね。今だから、昔だからではなく、このような心情はいつの世も同じなのかもしれません。

今回のような祟り神のことを「御霊ごりょう」といい、有名どころでは早良親王(さわらしんのう)と藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、井上内親王(いのうえないしんのう)他戸親王(おさべしんのう)の親子などがおります。
他にも御霊として祀られる方は結構いるようでして、この時代も生きて行くのが大変な時代だったように見受けられます。

京都には御霊を鎮める為に祀られた神社や寺院が多く存在し、中でも有名な神社が「上御霊神社」「下御霊神社」です。

道真の怨霊事件もすっかり影をひそめた12年後、西京七条二坊に住む貧しい家の娘で多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真の霊が現れ「私が生きてた頃、よく右近馬場という所に遊びに行きました。そこに行けば私の胸の内に燃えさかる恨みの炎は安らぎます。右近馬場に祠を建て私を祀ってください」と告げ消えたそうです。
文子は貧しく、祠を建てることは到底無理な話でした。
なので、取り敢えず自分の家の敷地内に祠を建て祀ることにしたそうです。
そして5年の月日が流れ、今度は近江の国(おうみのくに:滋賀県)の神社の息子の太郎丸にも文子と同様の道真からのお告げがあり、太郎丸の父親が右近馬場にある朝日寺の住職にお告げの件を相談したところ、文子の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、ここで漸(ようや)く道真を祀る社を建てることが叶ったそうです。

この話を知った、時の右大臣だった藤原師輔(ふじわらのもろすけ:忠平の息子)は、父である忠平を出世させてくれた恩恵を形で表すことにしたのでしょう。
その社を進んで増築し祀ったそうです。

それが現在の北野天満宮となった訳です。

当時の北野天満宮は御霊として祀られた訳でして、現在の学問、出世の神という訳ではありませんでした。特に京都の神社は、こうした御霊を鎮める為に建てられた社や寺院が多いのです。時代が流れ、真実が流れると、こうした良き形?で、人の都合の良い神様としてリサイクルされてしまうのです。しかし、もともと道真は文章の大祖、風月の本主でありますから、学問の神として崇められてもおかしくない才能あるお方であることは間違いありません。京都の神様はもともと人間が多いのです。しかも祟りを収める為に神として祀る訳です。

生前の道真の幼少期は、肝試しでも恐れることもなく平気な性分だったようで豪胆な肝のすわった人物だったようです。源氏物語の第一読者でもあると知られ、主人公の光源氏のモデルの一人なのではと考えられているそうです。





さて、猫丸は北野天満宮へは、1度お伺いしております。

ここからは猫丸の独断と偏見と直感で感じたことをお話したいと思います。

歴史マニアな方はスルーでお願い致します。

やはり道真は歴史が伝えるように祟り神だったのでしょうか?

道真さんは伝説の通り賢いお方に感じます。占いでみても性格的にはオールマイティで何でもこなせる器用な方だったようです。道真さんのお若い頃は人見知りでナイーブだったようですが16歳頃からは、とても恋多き青年だったように感じます。恋文を沢山書いている風景が浮かびますもん。文才のある方の恋文ですょ、貰われた方は胸キュンだったんじゃないでしょうか。多分、光源氏のモデルという逸話は真実のような気がします。恋文だけではなく、口説き文句も才能を発揮していたように思います。

優秀なので敵も作りましたが、先輩にも恵まれ、また後輩にも慕われた人徳のあるお方だったようです。男女共にかなりモテまくりの人気者だったように感じます。
物凄く好かれる方は、やはりその反面、妬みから物凄く嫌われるんでしょうね。道真さんは周りから愛されるタイプでしたが、時平さんはプライドの高い方。普段からニッコリ微笑むことのできない、寧ろ人を寄せ付けないタイプのように感じます。

当初は人から愛される道真さんを羨んだのでしょう。羨みながらも時平さんは道真さんを尊敬までしていたようにも感じます。
実際の後半の人生は2人は人目を忍んで仲良くしていたようにも感じるんですよねぇ…。
時平さんも道真さん同様にとても賢いお方でありましたが、それを遥かに上回る道真さんの天才・奇才ぶりに畏怖の念を抱き、自分を超える賢い道真さんを尊敬もしていたと感じます。なにせ、道真さんは、文学、歴史、儀式、宗教、祭祀、雑学、書道、武道、などなど、どの道をも極めた達人だったそうで、道が付くお名前は名前負けしておりません。

なのに…何故?こんなことになってしまったのでしょうか。
果たして歴史で言われている通りが真実なのでしょうか。

時平さんの側近の家柄重視の人間達が、時平さんに いちいち有る事無い事を真実を曲げて伝えていたのでしょう。そんな感覚がよぎります。

学者と武家との家柄の違いを嫌う、血統重視の人間によって策謀されたもののように感じます。道真さんのサクサクストーリー(サクセスストーリー!笑)が気に入らなかっただけだと思うんですよね…単に。
しかも20〜40代の道真さんは、もっと軽い感じの明るいタイプでプレーボーイのような感じでしたから、古い気質の朝廷の雰囲気に似合わない道真さんを気に入らなかったのではないでしょうか。

歴史が正確に伝わらないのは今に始まったことではありません。
自分達の恥ずかしい記録を誰が残したいと思いますか?

権力あるものは歴史を塗り替えて捏造することなど簡単なことでしょう…と猫丸は思いますけどね。現実ではなく自分が有利な理想を書いているようにしか思えません。

そして、道真さんは時平さんを恨んだとされておりますが、まぁ、最初の頃は時平さんのお若かったので反発心があったようですが、歳を重ねて行く中で時平さんの感情も良きものに変化しているように感じますし、道真さんもまた時平さんを元々嫌いではなかったですし、恨みの念は全く感じないんですよね。

時平さんも歴史で言われるような悪ではなかったとも感じます。
時平さんが策謀して左遷というこの形にも違和感を感じます。左遷というより、道真さんは本心は平安京を離れたかった…というような感じがします。行きたくて行った?みたいな…。どこでも良かったんですよ。でも寒がりだったので暖かい地域が良かったんじゃないのでしょうか。しかも、京都に帰りたいと願っていたということもなく、寧ろその反対で新たな地である太宰府で楽しく?というより忙しく?過ごしていたようにも感じますけどねぇ…。まるで真逆ですねぇ。まぁ、本当に見てきた訳ではありませんので真実は判りませんが…。あくまでポンポン浮かび上がる霊的直感です。
単なる妄想かも知れません。

で、結局どうなのか…。

まぁ猫丸的結論は…平安京を揺るがした怨霊事件、周期的にみて太陽の磁極変化による天変地異だった可能性が高いと思われます。

チャンチャン…( ̄▽ ̄)

え?

ですよね…(^_^;)

本当に怖いのは、その周期がこれからの時代にやってきているということです。

真面目な話、既に2012年に太陽の磁極は2極から4極に変化しています。これは国立天文台が2012年に発表しております。また2013年には「太陽の磁場変異の進行」を確認し、この状態が「小氷河期」と酷似していることも発表しております。
そして2012年頃から、地球は記録的といわれる災害が多発するようになり、年々記録は更新されつつある訳です。

まぁ、そういうことです。(どういうことなの?)

科学的根拠は少ないものの、太陽の活動が弱まっていることだけは確かなことです。
そして、太陽の活動が弱まることで起こり得る天変地異の現象が、ちょうど道真さんの時代にもあったと思うのです。天変地異で揺れる人々の心の不安が菅原道真の怨霊に重なっただけのように思えます。
道真さんの時代、中米のマヤ文明も乾燥化で崩壊しています。

前回の小氷河期だった16世紀後半から〜17中世では、魔女狩りの時代。日本では戦国時代という動乱期。西洋では天変地異による民族大移動がありました。

これからの時代、内陸部は乾燥し、海岸部は洪水が増すとも予測もされています。
森林が崩壊している地域は干ばつが予測されています。火山噴火や巨大地震も小氷河期には多い事例です。


怨霊よりも、これが1番に怖い現実だと思います。





ほな(・ω・)ノ

by neko_nezumi | 2015-01-30 17:05 | 不思議 心霊 | Comments(0)

    

宇宙からの カミガミトーク
by 猫丸 ねずみ
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