東寺の帰りに立ち寄ったパン屋さん「ブルディガラ」さんのすぐ横に、こちら 平 重衝 受戒の地はありました。
目の前は、京都駅です。
平 重衡(たいらのしげひら)は、(1157〜1185)
平清盛の子供です。
源平の争乱では平氏の武将として大変活躍しましたが、一の谷の合戦で源氏の捕虜となってしまい鎌倉へ送られ源頼朝に歓待されました。
しかし その後、東大寺や興福寺の焼き討ちの罪を問われて、その後奈良へと連行され 処刑されました。
平家物語巻十によりますと、重衡は一の谷から一人京都へ護送されて、八条堀川にあった藤原家成の御堂に幽閉されたのち、この御堂で重衡は法然との面会を深く望み、法然から十戒を授けられたと記されているようです。
この碑は、法然の八百年遠忌を記念して、ゆかりの地として示された碑なのだそうです。
当時の平家は、泣く子も黙る悪行三昧でしたから、その仏罰が当たったように、清盛は 悶え苦しみながら病で死にましたし、重衡は出家を強く願うなれど、願いは届かず浄土宗の開祖であった法然上人と会うことだけは赦されましたが、一門の没落により、人生の悲惨さに直面した時、ようやく自分は罪深いことばかりを行い、徳を一つも積まなかったと懺悔したそうです。
悪人として死んで行くことの罪深さから、法然上人に助けを乞い、法然上人からの教えを請い受戒を授かり、阿弥陀仏に帰依し来世に往生を遂げることで救われる道を選んだのかもしれません。
そして、重衡は一人鎌倉へ送られた後、南都側に引き渡され、重衡を憎み倒し何の反省もしていない数千の僧徒の前に、自ら潔く首を差し出して斬られて死んでいったと平家物語では伝えられています。
父、清盛とは、対照的な最期です。
斬首された重衡の首は、かつて猛火の火元となった般若寺の前に釘で打たれ晒されたといいます。
住所 京都市 南区 西九条 池ノ内町
北緯34度58分51.3秒/東経 135度 45分23.1秒(日本測地系)