7月23日のNHKスペシャル「京都祇園千年の謎」を放送してまして、たまたま見る事ができました。祇園祭は49年ぶりに前祭りと後祭り別れ23日が後祭りの宵山でした。
NHKスペシャルでは山鉾の側面に貼り付けられたタペストリーの謎に迫りました。







祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市 東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治時代までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれていたそうです。
貞観年間(9世紀)より続く古来よりのお祭りで、京都の夏はこの祇園祭で始まり、
約1ヶ月間という長い期間をかけて行われる、京都にはなくてはならない行事なのです。
祭行事は、八坂神社が主催するものと、山鉾(やまほこ)町が主催するものに大別されています。一般的には山鉾町が主催する行事が祇園祭と認識される事が多く、
山鉾行事だけが重要無形民族文化財に指定されています。
祭りのハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期によって前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の二つに分けられています。
山鉾行事は「宵山(よいやま)」前祭の意で7月14日〜16日・後祭7月21日〜23日。
山鉾巡行(やまほこじゅんこう)前祭7月17日・後祭7月24日が著名です。
八坂神社主催の神事は「神輿渡御」(神幸7月17日・還幸7月24日)や、
神輿洗(7月10日・7月28日)などが著名で、花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事です。
宵山、宵々山、宵々々山には、旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露もあるため、「屏風祭」とも言われています。また、山鉾巡行では、古来からの貴重な美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るので、動く美術館とも例えられ、またその美術品は鎖国の時代に諸外国から渡ってきた物だという謎もあり、そんな謎を追った番組をNHKスペシャルで放送していましたのでご紹介致します。
祇園祭は、京都に疫病が流行した863年に(貞観5年)疫病の原因だと考えられた魑魅魍魎(ちみもうりょう)を祓う為、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)が行われました。日本全国の国を表す66本の矛(ほこ)に諸国の悪霊を移し宿らることで、諸国の穢(けが)れを祓い、神輿(みこし)3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのが祇園祭の起源だとされています。
疫病が大流行したその原因こそが祇園祭を行うことになった訳ですが、その原因とは
長岡京で遷都(せんと)工事中に起きた藤原種継の暗殺事件で、無実を訴えながら亡くなった早良親王(さわらしんのう:奈良時代末期の皇族)ら6人の怨霊が厄いをもたらし、京の都に疫病を流行らせたと本気で信じていました。
その怨霊を鎮める為に祇園祭が始まりました。
現代では毎年40万人以上の人々が集う有名な祭りです。
もともと祭りとは「祀る」。
怨霊を鎮める為に祀るのが祭りの起源ですので、現代のお祭りの認識は大分偉い違いますね。
山鉾の側面をドレスアップしているのは、何百年も前の外国製のタペストリーや織物です。いつどこで誰が日本に持ち込んだのか、今も詳細は判っていません。
タペストリーや織物は中国やインド、ベルギーの物で16世紀に作られた物のようです。一枚ものの大きなタペストリーを二つに裁断されて使用されているものもあり、
何故、そのような経緯に至ったのかも判明していません。
そして、どの国で作られたのかも判らないタペストリーが上の写真の茶色のタペストリーなのですが、とても特徴のある毛で作られたタペストリーで、何の動物の毛で作られたものなのかも起源も判っていません。
それを現代の技術であるDNA分析で解析しようとの試みましたが、時代の流れの中、様々な傷や付着物により、明晰に分析することは不可能だったようですが、2種類の動物の毛がヒットしたそうです。
その動物とは牛、そしてもう一種は、チベットカモシカだということです。
一番に有力なのが、こちらのチベットカモシカの可能性が高いということです。
この時代、テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年に遊牧国家としてモンゴル帝国が出現しました。恐らく何の毛か分からなかったタペストリーは、
このモンゴル帝国から渡ってきたのではと推測されているそうです。
当時の染色技術として、赤を作るのはとても難しい色だったそうです。
そう説明するのは、染色家の吉岡 幸雄さん。
先程のタペストリーに色が付いていなかったのは、赤の染め方を知らない民族ではないのか…そして場所は砂漠で植物が余り育たない所に住む民族、または遊牧民ではないか…と推測しているようです。



鯉山は室町通に面しており、六角通と蛸薬師通の間に位置しています。
これらのタペストリーが何故祇園祭で使用されるようになったのか…という千年の謎にNHKスペシャルでは謎に迫りましたが、それにはどうやら江戸時代にまで遡るようです。
タペストリーは山鉾の外側の側面に飾られます。
タペストリーの起源を調べて行くうちに、どうやら京都の豪商(現在の財閥)が関与しているのではないかということが判ってきました。
この豪商たちが徳川家にお金を貸し付けていたという事実が判明(実質上は献金としていたかもしれませんが…)
その見返りとしてタペストリーを貰い受けたのかも知れないというのです。それが真実なら凄い話ですね。


その謎が鯉山のタペストリーの修復する際に、色々と判ってきたようです。
タペストリーの周りにはぐるりとラシャで覆われています。
修復するとなると、そのラシャを取り外さなくてはならず、慎重にラシャを取り外すと、中からBBというマークが出現!
一体、なんなのでしょうか!?
ブリュッセルとブラバンドとはベルギーの地名です。
当時、鎖国をしていた日本は、唯一オランダとだけは交易があったようです。
その為、ベルギーから徳川家に献上品として高価な美術価値のあるタペストリーが渡って来たと推測されました。
鯉山にあるタペストリーの「イーリアス」の一場面でトロイの王の姿を描いた物は、
絵柄の違う4枚と一緒に、合計5枚が日本に渡ったとされ、一枚は徳川増上寺に渡り(焼失)二枚目は加賀藩の前田家に渡り、その他は白楽天山(分割)や、鶏鉾・霰天神山(あられてんじんやま:分割)や、鯉山(一枚を裁断)という形で分けられたようです。
その中で確かに「タペストリー」と記載されていたのです。
という江戸時代初期の伊達氏の家臣の武将であり、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ:伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使としての外交顧問)
としてヨーロッパに渡った折に、何らかの形で貰い受けた可能性などがあるようです。








こちら、滋賀県 長浜の「曳山祭り(ひきやま)」の曳山にも、ベルギーから渡ってきたというタペストリーを見送り幕として使用されています。
徳川家康父子に献上され、その後会津若松や金沢周辺にも伝来したようです。
その後、売却され長浜や大津、そして京都町衆がタペストリーを手に入れて、曳山や山鉾の見送幕に使用したようです。


















当時の豪商たちが、徳川家への献上金の見返りに外国の宝物を手に入れた可能性が高いのでしょうね。
このようなルートを通って、祇園祭に辿り着いたのでしょうか。
祇園祭会長の吉田さんは、「武士を食わねど高楊枝」という武士への配慮として、出処などがわざと分からないよう記載しなかったのでは?と推測しています。
と、いうことは永遠に真実を知ることはできないのでしょうねぇ。
いつの世も、権力者の立場が悪くなることはないのでしょう…。
上の写真のタペストリーは、本物の黄金の織物だそうです!
かつての王族からの徳川家への献上品が豪商たちの手に渡ったという所までは判明できました。その後どのような経緯で、豪華絢爛な宝物がお祭りで使用されたのか…と
いうことまでは判明しませんでした。
謎が多い祭りは神秘的です。
王家からの宝物を間近で見られる祇園祭は、特別なお祭りであることは間違いなく、まさに祇園祭は日本でも三大祭りの一つです!
謎に満ち、海外からやって来た豪華絢爛な美術品祭りと言っても過言ではない祇園祭です。
ほな(=゚ω゚)ノ
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