山号を錦稜山(きんりょうざん)と号します、こちらは浄土宗鎮西派に属するお寺で
浄土宗・聖光寺(しょうこうじ)さんです。
寺伝によりますと、当地には平安時代後期に仏師康慶(ぶっし こうけい)の居宅があったそうです。その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(しょうこうぼう べんちょう)の草庵があったと言われているそうです。2人の祖聖光上人が住んだとされる霊跡です。弁長は8年ほど法然上人の許に通い、浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられています。こちらの聖光寺さんは、元久元年1204年に弁長の帰郷に際して康慶(こうけい)がその離別を悲しみ、弁長自身の真影を草庵に奉安し、聖光庵と名付けたことに始まるようです。その後戦乱などで何度か消失しましたが、1578年の天正6年に再建されましたが、再び1832年の天保3年に消失、同年に華頂宮尊超法親王が大施主となり復興したそうです。
二度の消失にもかかわらず、真影の周辺が焦げた聖光上人自筆の「焼残りの御影」や、
本堂には鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来像が安置されております。
寺宝として清海曼荼羅(せいかいまんだら)当麻曼荼羅(たいままんだら)を蔵しているそうです。
境内には、忠臣蔵で有名な大石良雄の実母と綿屋善右衛門好時(わたや ぜんえもんよしとき)義商天野屋利兵衛(あまのや りへい)の墓があるそうです。
天野屋利兵衛は、赤穂藩浅野家に出入りしていた商人で、旧赤穂浪士達の生活を支え、討ち入りの武器などの支度を整えた人物だと言われています。
忠臣蔵での討ち入りの前に、大阪奉行所から討ち入りの支援をしたかと詰問(きつもん)される場面で「天野屋利兵衛は男でござる」と言って口を割らなかったという名場面のセリフを石碑に刻んでいるようです。
この人物は実在したのかは謎だそうで、何人かがモデルとなった人物だといわれております。
山門をくぐって左手にある地蔵尊です。
「開運地蔵菩薩」と書いてあります。
歴史などはわかりませんでした。
きれいなので、比較的新しい地蔵尊だと思われます。
とても良いお顔をされていましたょ。
⬆︎もう過ぎてしまいましたが、法話は定期的に行われるんではないでしょうか。
寺町通りとは、豊臣秀吉公により京都各所にあった寺院が集められたことに由来します。この辺り、昭和の40年から20年近くは電気屋が多かったそうなんですょ。
しかし、この聖光寺さんだけは移転させられたお寺ではなかったようです。
錦稜山 曼荼羅院 聖光寺
住所 京都市 下京区 寺町通り 綾小路下る 中之島584の1
電話 075 351 7594
ほな(=゚ω゚)ノ