中国・四川省 南西部に位置する人里離れた「鳴陽寺」という村は、なんと全村民80人のうち、36人もの人々が極めて背の低い「小人症」だといいます。
メディアの調べによれば、この36人の身長は最も高い人で120cmに満たず、最も低い人で63cmだそうです。
現時点での症例頻度としては、この症状の障害は2万人に1人の確率だと言われているそうですが、この村では80人のうち36人もの人々が小人症になっていることで、未だに誰にも その謎を解明出来ずにいるそうです。
一体、この村で何が起きたというのでしょうか。
ただ一つだけ思い当たる原因として、この村の長老がその原因の可能性を話してくれました。
1951年の夏までは、それまでこの村に小人症を患う者は、誰一人としていなかったそうです。
ところがある夏の夜、突如として村人達を謎の疾患が襲ったといいます。
特に子供達は、この謎の疾患でとても苦しみのたうち回ったそうです。
そして、この日を境に子供達の成長はピタリと止まったといいます。
当時5〜6歳だった子供達は、その時の身長のまま生きることを余儀無くされて来たというのです。
成長が止まっただけではなく、他の者は身体的に様々な症状が出たそうです。
その後、多くの科学者や医者、専門家達がこの村を訪れ調査をしましたが、現在に至るまでの60年間、何一つ原因を突き止めることができていません。
何か化学物質でも撒かれたのでしょうか。
こちらの方々の小人症は、急激に集団で具合が悪くなったことからの発症ですので、遺伝子の異常で発症したとは考えにくく、他の何かの原因がありそうですね。
先天性の場合ですと、染色体に異常があることで出る遺伝子疾患も考えられますけど、遺伝子や染色体に異常がなくても、発症の過程で体内にて、胎児になる前の胚や胎児に発症する奇形症候群もありますが、それでもなさそうです。
未だ原因が解明されぬまま、不自由な体で生活している人々。
小人症になってしまった村人の数の多さから言えば、やはり化学物質が撒かれた可能性を疑いますが、皆様はどう思われますか。
「ブリキの太鼓」というフランスの映画があります。
いま、小人症の記事を書いていて思い出した映画です。
猫丸がこの映画を観たのは、20代前半の若かりし頃で、当時は本当にこの映画を観てショックを受けました。
あらすじは、1920年代ポーランドの港町に生まれたオスカルという子供が両親に3歳の誕生日にブリキの太鼓を買ってもらいます。
オスカルは酒飲みの父親や大人社会を見るにつけ、次第に嫌気をさすようになり、ついには自分の成長を止めるため、階段から落ちるという選択をします。
オスカルの願いが叶い、3歳の体のまま成長を止めたオスカルは特殊な力を持ちます。
それは奇声を上げると、その振動でガラスが割れるというものです。
オスカルは自分の心の怒りを奇声に乗せて、町中のガラスやグラスを割っていきます。
オスカルは様々な人生体験を通して、最後にはブリキの太鼓を手放して、大人になる決意をする…といった内容の映画なのですが、この映画には多くの小人症の人が出演していました。
数々の賞を受賞した作品ですが、当時は露骨な性描写から上映禁止となった映画でもあります。
全体的な描写は「人間の本能」といった、生々しい映画です。
わずか3歳にして、大人の醜悪さや大人社会に嫌気をさし、オスカルの大人にならない為にした行動とは、自身の成長を止める為に階段からわざと落ちて自分の成長を止めるという願いを叶えるという、なんとも言えない気持ちになるカルト映画です。
この世には様々な人がいて、人間の数だけの考え方がある訳ですから、オスカルのような人が現実に存在していたとしても、それは不思議なことではありません。
医学が発達しているといわれる現代でも、この世の奇病は何一つ医学的には、何一つ原因が解明されておりません。
あらゆる病気は謎に満ちているのですから、奇病の原因が分からなくて当然かもしれません。
中国の小人症の方々は、このような奇病を発症しながらも、その病の完治を諦め、今を大切に生きているそうです。
悩むだけ無駄だと…。
そうですよね、治らないのに治ることに執着し、日々心を傷めて生活していたのでは、この方々に幸せはありません。
病気を諦めることで、今を幸せに暮らしていくことは賢明な選択だと思います。
なにも奇病だけでなく、どの病も一緒ではないでしょうか。
完治を望めば治療に希望を持ちますが、どの治療も辛く苦しい思いが待っています。
しかも、そんな治療の成果が出るとも限りません。
むしろ辛く苦しい治療を行っても、完治せず逆に薬の副作用で更に悪化する方々もおられます。
通院する人ばかりが目立つのが、現在の病院の姿ではないのでしょうか。
医療が最善なら、何故患者は減らずに増えるのでしょうか。
一生治らないかもしれない、中国の小人症の方々は、病気を治すことを諦めて正解です。
奇形は現代でも不治の病。
そんな状況を憂いた時期を経て、完治を諦め明るく人生を楽しく過ごせる事を選択しました。
治りたいという欲があり過ぎれば、治らないことに不安や不満や怒りが満ちてきます。
「治らないかもしれないけど、だからこそ今を大切に生きよう」とする心ひとつで
人生は生きやすくなると思うのですが、いかかでしょうか。
猫丸は過去さまざまな病気を体験し、余命宣告も三度受けました。
現在も疲れたりすると、あっちもこっちも痛くなります。
東日本大震災の1年後には、足がよくツルようになり、つった状態が治らないという症状が半年続いた時は、余りの痛さに毎日の生活さえ苦痛でした。
毎日の家事や仕事にも支障のある中、家事も仕事もこなしました。
その間、病院にも行ってませんし、痛み止めの薬も飲みませんでした。
ある日、娘が高価なサポーターを買ってきてくれました。
余りにも痛みの酷い猫丸の姿を見て、買ってきてくれたのです。
サポーターをつけて暫らくすると、あれ程の痛みが日に日に消えていました。
娘が猫丸を想う気持ちが治癒を手伝ったのかもしれませんし、時期が来て良くなったのかもしれません。
この原因不明の痛みの原因は、それこそ加齢と多分放射線の影響が弱い部分に出たのだと思っています。
猫丸は若い時分に何度も足を傷めていましたので、その影響が歳をとり弱い部分に出たのかもしれません。
東日本大震災後、様々な身体の不調で病院は更に大繁盛しているそうです。
特に眼科は大盛況で、白内障を患う患者の予約でいっぱいだそうです。
放射線の影響は、何も癌や甲状腺肥大だけを発症させるわけではありません。
白内障に関しては、この3年半は大変な数の患者数だということです。
猫丸の知り合いも、この3年半で白内障の手術をされた方は6人もおられます。
白内障は手術したからと完治するものではなく、猫丸の知合いの方々の中には2度も手術をされた方が3人もおります。
2度の手術を経ても、症状が良くはなっていないのが現実のようです。
東京 江戸川区 西葛飾にある「井上眼科院」では2013年度だけで白内障の手術を行った人は2000人もいるそうです。
白内障と被ばくの関係に関しては、国連も日本政府も認めています!
福島原発事故以降、増加していることを誰も否定が出来ないほどの数なのですから。
目の疾患で増えたのは白内障ばかりではありません。
視力低下から目の痛み、網膜剥離なども増えているようです。
放射線の影響はそれだけではありません。
内臓の全ての病気や脳障害、精神や骨、筋肉、神経、血液、髪の毛、爪、皮膚など、ありとあらゆる自身の弱った箇所に影響があるという専門家もいます。
因果関係の検証が出来ていないため、ハッキリしたことはいえませんが、未だ問題解決さえしていない世界一の被ばく国日本ですから、日本に住む以上は、放射線の影響は大なり小なり受けることになります。
日本だけでなく、世界中に撒き散らしているのが現状で、細胞分裂が顕著に行われる胎児に影響がないという確証もなく、先天性の身体的欠損や内臓の欠損などの影響もあるかもしれません。
チェルノブイリの原発事故から28年。
チェルノブイリでは現在三世代目の子供たちに顕著に影響を及ぼしています。
汚染地には現在健康な子供はいないそうです。
健康な子供は100人中2人の割合だそうで、事故から28年経とうが人間に都合の良いように土壌の浄化は出来ていないようです。
少し動くだけでも疲労するという子供達。
チェルノブイリ周辺地域にある小学校では、645人の生徒のうち体育の授業に参加できるのは157人だけだそうです。
汚染地の学校では、体育の授業中に突然死する子も少なくないのだそうです。
視力低下が免疫力低下のサインだそうで、チェルノブイリの子供達は、突然黒板の字が見えなくなるそうです。
このような慢性的な被ばく症を治す薬はありません。
少しでも免疫力を低下させないことしか、現状を維持する方法はありません。
家族が仲良く過ごすことだけでも免疫力は上がりますから、現状を明るく生きるうちに様々な症状が緩和していくことは可能かと思います。
チェルノブイリは、年間1ミリシーベルトなのに対し、日本はなんと20ミリシーベルトに設定したままです。
ですから、現在五体満足な方々は、現在のその健康を大いに喜んでください。
免疫力が低下した時、身体の弱い部分に出る影響ほど怖いものはありません。
なので治療(薬)などで、急激に免疫力を低下させてしまうと、次から次へと不調が出てきてもおかしくはありません。
免疫力を低下させない方法は、薬に頼らず副作用のキツイ薬や治療をせず、日頃の食事も程々を守り、体温をあげる工夫をし、日々感謝して楽しく過ごすことだけです。
政府のいうように直ちに影響はなくても、今後放射線による影響は出てくるでしょう。
既に日本は福島原発事故以来、たったの一年半で人口推計が自然減となってしまいました。
2013年は、24万4000人となる過去最高の値でした。
2013年における出生数は103万1000人で2012年度を約6000人も下回りました。
一方2013年度の死亡者数は、127万5000人で2012年度を約1万9000人上回りました。
出生数から死亡者数を引いた人口の自然減は24万4000人となるわけですね。
自然減は2012年度より2万5000人増えたということになります。
日本の人口減少は既にだいぶ前から下降気味ではありましたが、それでも東日本大震災後の、その減少スピードの加速はまさに異常事態です。
国民に余計な不安を煽るとの名目で真実を避けて通るのが常識のようになってますけど、確実に突然死が増え具合の悪い人が増えているのです。
この被バク国で生きていく…ということは、身体に起こる変化は加齢による老化も含め
通常よりも早く訪れることになりそうです。
様々な体調の変化は想定外ではなく、むしろ想定内として生きる覚悟が必要です。
専門家によれば、被ばくで寿命は20〜30年も短くなるだろう…とも言われております。
それが真実なのだとしたら、若い方も適当に生きてはいかれません。
仮に寿命が100歳ならば寿命が30年縮んだとしても、まだ70年は生きていかれますが、寿命がいつくるかなど誰にも分からないのが普通です。
寿命が縮むかも知れないと思えば、恐怖いう精神的デメリットもありますが、逆に毎日を適当に過ごさずに済む…というメリットもあります。
長生きできるとあぐらをかけば、がむしゃらにチャンスにくらいつくこともしません。
寿命が縮むというリスクは、命を無駄なく後悔なく生きれる可能性もあります。
楽しんで過ごすうちに、免疫力も上がり通常通りの天寿を全うできるかもしれません。
日頃、悲しみが多かったり、苦しみや怒りが多い人は免疫力を低下させます。
死を意識せず、生に感謝もせずに日々適当に生きるということは、このような感情を野放しにしてしまい、免疫力のチカラを弱めてしまうことになります。
五体が揃っているならば普段の生活は難なくこなせます。
脚を痛めた時、脚の尊さを知りました。
エレベーターがあるので階段の上り下りをせずに済みましたので、エレベーターやエスカレーターの有り難さを痛感しました。
普段普通に歩けるだけで、なんと有難い事か…。
もし足が片方なかったら、両足がなかったら、今とはかけ離れた困難な生活になります。
幸いな事に痛くても両足があるので歩けます。
人間はどこが痛くても辛いもの。
でも痛くないことを感謝する人は少ないものです。
痛くなってから、痛くない事に感謝が出来るのが人間です。
猫丸は、様々な箇所の痛さの経験は一通りあるのです。
その中で唯一痛くなかったのが癌だけでした(苦笑)
癌は治療さえしなければ痛くもないし、寿命も全うできると思ってます。
詳しくはカテゴリ「健康」で「癌についての真実と、選択肢。そして生き様…」という記事を書いておりますので、宜しければご覧ください。
寧ろ筋肉や筋、そして神経痛の方がどれだけ痛いことか…。
驚きますよね。
これらの痛みを歓迎する人などほぼいません。
むしろ痛みを嫌い、痛みを自分の敵だとばかりに悪者扱いをします。
病気を患った場合、この痛みがなければ重大な事態だとは気付けません。
人生も一緒であり痛みが分からなければ、心身共に人としての成長ができないのです。
心も身体も、幾たびの痛みに襲われてこそ、痛みが人の心を正して行くのです。
辛く悲しい出来事や、心身の痛みが、唯一人間をまともに正せる機会だと気付く人は少ないのです。
痛みは天が与えた試練ではありません。
痛みとは、人間が精神的に大人として成長出来る為のプロセスだと考えます。
現代の西洋医学に取り込まれてきた現代人が、かような真実を知れば拒否反応も出るのが普通です。
通常は信じられないことだと思います。
ずっと西洋医学を疑わず、今まで生きていたのですから当然ですよね。
人生の選択肢は、全ては自分が決めることです。
不平不満を言っても、それは自分の選択肢にケチをつけているだけの話。
肯定も否定も、全てがその方々の選択であることだけは間違いありません。
今後どのように生きるか…猫丸は既に3度も余命宣告された身です。
死を覚悟して今を楽しく過ごすことの積み重ねしているだけですが、今のところ死ぬ気配はありません。
今後も変わらず、今を感謝して楽しく生きていくだけです。
みなさまも後悔のない人生となるために、自分の知らない世界への興味を持つことをお勧め致します。
この世で見えている確かなものにはカラクリがあります。
色んなことに気づける人生なら、いい選択肢も沢山あるはずです。
人生は今が1番楽しくないのなら、今後も楽しめる機会には巡り合えないかもしれません。
それに気付けると、今を大切に生きるようになるのが本来の人間の姿だと思います。
2015年1月26日追記…。
この記事を書いたのは2014年9月22日でしたが、11月前半に妹の婚約者が40代前半で突然死をしてしまいました。
昨年は、この記事以降に知り合いも含めて、3人もの尊い命がこの世を旅立ちました。
昨年だけで5人もの方々との突然のお別れをしなければなりませんでした。
この記事は沢山の方々が見てくださっておりますので、是非この機会に人の命の有り難さを改めて思っていただきたく、改めて追記させていただきました。
猫丸のブログのカテゴリ健康の記事を見ていただくと、目から鱗の話ばかりで到底信じられない…という話もあるかと思いますが、真実は一つしかありません。
それでも人の数だけの考え方があります。
どの方もご自身で選択された事柄で運命が変わります。
良い選択肢に辿り着くために時間をかけ、更にお金をかけても、真実に辿り着かない方々も多いのが現状です。
現代医療が発展しているかのような錯覚をしておりますが、現実には病院通いしている方は一向に減ってはおりません。
現代医学は発展性を見せているとアプローチしておりますが、医学が万能ならば年々患者は減り病院は閑古鳥になっていなければおかしな話なんです。
そして猫丸もこのような記事は書いていないでしょう。
しかし、現実には患者人口は減るどころか劇的に増えています。
医療も仕事、患者さんを無くせば食べてはいかれません…ということではないのでしょうか。
医師が生きていく為には、患者さんが必要不可欠だということです。
これが目に見える医学の真実です。
医学の総てを否定するものではありません。
町医者へ出向き、自分の身体の心配を医師に聞いてもらい、医師に大丈夫だと言って貰えることなどは最高の精神安定に繋がりますから、地域に寄り添った町医者の存在は大きいと思っています。
医療の問題点は、治療法がやりすぎていることが問題であって、そうでなければ生活の質や命を失うリスクは少ないと思います。
人間にもともと備わっている免疫細胞を破壊してしまうだけの薬や治療の副作用が問題なのです。
例えばがん治療などのは、治療のリスクが命を縮めていることが問題なのです。
がん治療のリスクはまさに命懸けです。
単に治りたい、医者は治せるもんだ…と勝手に思い込んでも現実は違います。
リスクを承知で治療をしていない方もおられますので、こんな筈じゃなかったと後悔する前に、特にがん治療は命に関わる一大事になり兼ねませんので、がん治療の勉強は必要です。
命が助かりたいと欲が深くなり、医者に深く関わるほど寿命は減ります。
薬を飲めば飲むほど、具合は悪くなり慢性化し命を縮めます。
身体はどんな病気であっても、必ず自分の免疫細胞の治癒力で治しています。
薬や治療が治しているのではありません。
自分の身体の免疫細胞の力で治すのです。
自分が治せない病気を、医者も治せないのです。
本来の健康維持とは、意識の改革からです。
意識が心配の念で捉われるなら、身体は衰退します。
これが病気のシステムだと理解し、心配する意識を少しでも改善なさる努力が、未来の健康維持に役立ちます。
「病は気から」を理解すると身体は元気になります。
みなさまの選択肢ひとつで、人生が変わります。
病院での治療を選択されるならば、そのリスクを深く勉強し承知し覚悟して、何事も真剣に取り組む姿勢が大切です。
まずは自身を守る日々の生活習慣と意識改革をなさり、自分自身を信じることが大切です。
健康を維持する心もほどほどです。
心配する人は、病気のリスクも高くなります。
良いこともやり過ぎては本末転倒です。
絶対駄目だとする、がんじがらめの我慢は身体に悪い方向性を持ちます。
好き放題や、真逆のがんじからめの戒律という両極端な物事に良い方向性はありません。
何事も「ほどほど」が一番です。
今日過ぎたことは、明日減らせば良く、その調整を自らの選択で実行できれば、問題も少なく、若しくは無いに等しいものなのです。
世の中には、好き勝手放題やっても長寿で健康に問題もない方もおられ、また逆に健康志向で、なおかつタバコもお酒も飲まない方々が病気になるという現象もあります。
ほどほどを守ることが、1番の健康法です。
みなさま、よく考えてください。
毎日、必ずどこかで人は亡くなっています。
これだけ毎日 人が死んで行くのに、自分は死なない、家族は死なないと思い込んでいる方ほど、いざに対応する力がありません。
人は必ず死ぬのが運命です。
今日死ぬ覚悟して生きれば心配事は減ります。
今日を精一杯、後悔しないよう生きるだけです。
明日死ぬと宣告されたって、現実何ができましょうか。
覚悟のない方は、いつも何事も心配して生きる他ないというのが現実なのです。
逆に健康維持のため、何かを我慢して戒律のような約束事を守っていてさえも、人は必ず死ぬのです。
幸せな人生とは、毎日の生きる質が大切な要素だと考えますが如何でしょうか。
喜びが大き過ぎても身体には負担が掛かるのです。
世の中には笑すぎて亡くなる方もいますから。
それは、極端に笑すぎると心臓に負担が掛かるからです。
何事もほどほどをキープすると、心身共に負担なく生きれるコツとなります。
毎日の家事育児は大変だと思います。
しかし、人間は動くからこそ細胞はイキイキと活性化し、汗をかくから代謝を促し老廃物を排出します。
バランスの良い適度な量の食事は、健康を維持してくれるてしょう。
動かない人の細胞は、活性化もせず老廃物の排出もできないことから元気にはなれません。
忙しいからと、つい添加物たっぷりの毒が入ったお惣菜や冷凍食品を買って食べれば、長い年月をかけて身体を衰退させ病気の原因を作ります。
大切なお子様にも被害が及びます。
今は何でも電化製品が家事をやってくれる分、家事が格段に楽になっているにも拘らず、感謝するどころか更に怠けて動かないという悪循環を招いている人もいます。
ろくに動かずに、三食を食べた分だけ身体に余分なエネルギーを溜め込み、それは身体に悪いだけでなく、精神的にも落ち込みます。
適度に動く家事育児などは、逆に身体や精神的に良い結果を招くものであるはずなのに、現代ではストレスという括(くく)りで悪い形となってしまっているようです。
楽しく家事や育児が出来れば、こんなに幸せな行為はないのです。
サボったツケ、ラクしたツケが、自分や家族の健康の質を下げ、逆に精神的不安要素を増幅させ、結果的に寿命を縮めていることを認識すれば、今後の生き方の選択肢で身体だけではなく精神も含めた人生改革は可能だと思います。
逆に忙しいからと寝ずに無理を重ねていけば、寝ている間に修復出来る細胞の手助けを防ぐ結果となり、具合を悪くした結果、寝付くことになります。
昔、TVで瀬戸内寂聴さんがお話されていたことを思い出しました。
「人は寝ないと寝ない貯金をすることになり、結局は身体を壊して寝付くことにな
」と…。
確かにそう思います。
何事も、ほどほどです。
過ぎればリスクは伴います。
自分の程々さ加減を見つけ、それに伴う努力が普通をキープできる唯一のものです。
人は困難に出会うと孤独になる傾向が強くなります。
相談に乗ってくれる人や、手助けしてくれる人が居てさえも、孤独感は募る傾向が強いようです。
それは、自分の身に起きた出来事や重荷を一緒に背負ってはくれないと感じるからなのでしょう。
だからこそ、自分から発する「人を想うチカラ」や「温かい心」を出すことによって、結果的に自分の孤独を癒すということにお気づきください。
不測の事態が発生した時、自分だけが不幸せと思うのはどうなのでしょう?
大切な人が苦しむ姿を見て、気を病まない方はおりません。
苦しむ姿は、家族や他人にでさえ苦しみを与えます。
なので、周りにいてくださる方を想うことは、大事なことではないのでしょうか。
そして、その心の余裕こそが、新たに立ち直れるキッカケになるはずです。
相手が笑顔にならないのなら、アナタが笑顔になりましょう。
ならば相手も笑顔になる機会を得られ、笑顔に導くことも可能です。
相手が笑顔になれば、無理して作った笑顔も、いつの日か心からの笑顔になる機会に繋がる筈です。
人から必要だとされれば、人は独りではなくなります。
人が人を想い、人はこれにより生きる力を得ます。
ですが、人から想いを掛けて貰える事ほど難しいことはありません。
何事も自分から発信しないと状況も変わりません。
病気になった時や不幸に見舞われた時などは、どうしても自分にばかり矢印が向いてしまうため「病気(不幸)になって辛いんだから、わかるでしょ?」とばかりに、人は傲慢な態度に陥りやすく、周りの人はそんな自分勝手な人を見て、どんなに大切な人にであっても、心の中から優しさが奪われていくこともあります。
病気になった時ほど、看てくださる人を思い遣ってみてください。
看病する相手は、心からアナタのことを思い動いてくださるはずです。
お互い様を実現すれば、こんな状況下でさえも想い合い、支え合う幸せを感じます。
覚悟ある責任がとれる人生は、一つ一つが幸せの実感を伴う大きな事柄となります。
死を考えること…これは不安要素を拡大して生きることではありません。
死を考えるということは、今が本当に大切なんだと気付けることではないでしょうか。
愛する人々とのいつか訪れるお別れに、そして自らの死を想う想像力があればこそ、違う視点での物事の発想が持てるのではないのでしょうか。
悩む人にとれば、人生とは長く思うもの。
それも、辛く悲しい時ほど…。
しかし、限られた命になると人生はあっという間に感じます。
立場が違えば、これだけの違いになります。
人間が変わりたいと必死になれる時は余りありません。
皮肉にも、苦しい時や辛い時や悲しい時だけは心底変わりたいと思えるのです。
人は苦しみや悲しみを悪いことだと認識しますが、実はそうではありません。
苦しい時、悲しい時などは自分の人生を劇的に変える滅多にないチャンスだということです。
この時を見逃せば、人が心から変わりたいと想う機会もないものです。
辛く悲しみ溢れた経験、苦しい経験をしたからこそ人は真から変われるチャンスを与えられ、そんな事態を乗り越えていく勇気こそが新しい自分と出逢えるのです。
何もかもが万能のように思える現代ですが、果たしてそうでしょうか?
進化した医療技術を駆使しても寿命が画期的に延びることもありません。
発達した科学を駆使してさえ過去や未来を変える事も出来ません。時間をコントロールすることさえも出来ません。
テクノロジーは万能じゃなくても、人は奇跡を起こせるだけのチカラを持っているんです。
人が意識をすることで生まれる奇跡は沢山あります。
人が人を思い遣ることで生まれる奇跡は、人それぞれに様々な素晴らしい形へと移行させ、現在の状況を変化させられるほどのチカラです。
そんな素晴らしい力が人間に、アナタにあることにお気づきください。
この力は人間なら誰にでもが意識すればこそ発揮できるものです。
人生で起こる良い現象 悪い現象も、全ては自分が行う因果応報です。
どんな状況でも誰のせいでもありません。物事のせいでもありません。
例え試されたのだとしても、アナタの選択肢でその状況は変わります。
変わらないのも、アナタの選択肢です。
人それぞれの人生は、アナタの選択で成り立っているのですから。
今後あなたはどうされるのでしょうか?
すべてはあなたの選択次第です。
ほな(=゚ω゚)ノ