「貴船神社」は京都の左京区にあり、全国に約460社ある貴船神社の総本山です。
比叡山電鉄の貴船口駅から2キロほどの山の中にある神社です。
ここ数年、メディアなどで恋が叶うパワースポットとして、京都では有名な神社となりました。
それには、平安時代の女流歌人で恋多き女性として知られる和泉式部(いずみ しきぶ)が、貴船神社をお参りして恋が叶ったという逸話があるからなのでしょう。
和泉式部といえば、多数の貴公子に言い寄られたモテモテの人妻だったそうで、人妻の身でありながら、スキャンダラスな女性として有名です。
不倫は現代であっても許される行為ではありませんね。
紫式部から「恋文や和歌は素晴らしいけれど、素行は感心できない」とまで言わせた女性です。
そんなモテモテの和泉式部が何故この神社を訪れたのでしょうか。
時の流れは残酷で、モテモテだった時代も過ぎ去り、自分が犯した因果応報に心乱れるような仕打ちが還ってくるわけです。
モテ期から十数年後、武勇で知られる藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の正妻になっていた時代、夫の保昌の心は式部から離れてしまっていました。
式部は悩み心を乱して毎日を過ごしていた時に、こちらの貴船神社にすがりに来たというわけです。
その時、式部が詠んだ歌が、その心情を伝えています。
「物おもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる」
夫恋しさに思い悩んでいると、沢に飛ぶ蛍(ほたる)も、私の身体から抜け出て行く魂のように見えます…という意味です。
魂が抜け出てしまう程、辛い思いをしていた為に、相手の女性を呪う為なのか、それとも自分に気がない夫を呪う為だったのか…その両方だったのか。
貴船神社に詣るということは、そういうことではないのでしょうか。
地域名の貴船(きぶね)とは、水の神であることから濁らない「きふね」というそうです。
創建は不明ですが、社伝では反正天皇の時代とされ、神武天皇の母「玉依姫:たまよりびめ」が、黄色い船に乗って淀川、鴨川、貴船川を遡(さかのぼ)って当地に上陸し、水神を祀ったと伝えられております。
そのため、こちらの神社では珍しい「おみくじ」があります。
一見すると真っ白に見える紙で作られたおみくじが有名です。
真っ白で何も書かれていないおみくじを一枚選び、水の中に沈めるとあら不思議!
水に濡れると文字が浮き出でくる仕掛けのおみくじです。
こちらのおみくじは、近年では珍しい「大凶」のおみくじが存在する神社でもあります。
そしてこの貴船神社ですが、実はここは昔から人を呪い殺す「丑の刻参り:うしのこくまいり」発祥の地として知る人ぞ知る神社なのです。
恋のパワースポットとは真逆の愛する人を呪い殺す神社だったとは…恋を実らせたくて来た女性達が、実は丑の刻まいり発祥の地という真実を知った女性は驚いちゃいますね…(汗)
「丑の刻参り」とは、呪い殺したい人の髪の毛や写真を藁(わら)で作った藁人形に入れて、白装束(しろしょうぞく)を着て丑の刻(うしのこく:午前1時から3時)に神社に詣(もう)で、御神木に五寸釘(ごすんくぎ:長さ15.15cmの釘)で呪いを込めて藁人形に打ち付けることで、憎い相手を呪い殺すという、なんとも恐ろしい個人で行う呪詛儀式のことです。
この儀式を行う際には、顔には白粉、歯にはお歯黒、濃い紅をさし、鉄輪(かなわ:火鉢の中に置く五徳のことで、鉄の輪に3本の足がついたものをこれを逆さにして、足にローソクを立てる)を頭に乗せ、ローソクに火を灯し、胸には鏡を掛け、口には櫛(くし)を咥え、履物は一本歯の下駄を履き、この出で立ちのまま7日間お参りを続けます。
帰路に寝そべる大きな牛を恐れることなく乗り越えられれば、呪いは成就するといわれております。
貴船神社の社殿は「本宮」「奥宮」「結社」の三つあり、呪いの儀式で最適なのが「奥宮」だと言い伝えられております。
奥宮は元は本宮だったそうです。奥宮の祭神「闇おかみ神」と本宮の「高おかみ神」は呼び名が違いますが、実は同じ神であったとも伝えられております。
実際に丑の刻参りが行われていたのは昭和初期までと伝えられておりますが、本気で呪いたい相手がいる人は、現代でもこの呪いの儀式をこっそりと行いにやってきているかもしれません。
猫丸は一度、3年前くらいに貴船に行ったことがあります。
山の中にある貴船神社はとても美しい神社ですが、山の気が強い所です。
昔は日本も男尊女卑、年功序列の時代が長くありましたので、弱い立場の女性が自分の居場所を守るため、命懸けで呪詛を行っていたのかもしれませんね。
実際調べて見ますと、ネットの噂では貴船神社では定期的に見回りをしているそうで、藁人形や五寸釘が頻繁に発見されてるとか…。
噂には尾ひれが付き、まことしやかに様々な噂がたっています。
例えば「暴力的な夫が死んで保険金が入った」とか「親族間でもめていたが、その相手が死んで平和になった」とか「不倫相手が死んで元の鞘におさまった」とか…。
仮にこれが真実であったとして、現実に円満になったように一方的に書かれておりますが、そこには死人が出ている訳で、決して円満解決に至っているものではありません。
丑の刻参りのモデルになったとされる鬼女となった橋姫の話があります。
嵯峨天皇の時代809〜825年に、橋姫という公家(くげ)の娘がおりました。
橋姫は普段から非常に独占欲が強く、尋常でないほど嫉妬深い女性で、夫の浮気がどうしても許せなかったそうです。
その為、貴船神社に7日間こもって「私を鬼神に変えてください。夫の愛人を取り殺したいのです」と祈ったといいます。
そして、ご信託が下され「鬼神になりたければ21日間、宇治川の水に浸れ」というものだったそうです。
これを聞いて喜んだ橋姫は、言われたように21日間宇治川の水に浸り、念願叶い鬼女になり、橋姫は鬼女になってまで殺したかった愛人と主人を殺したのですが、それだけでは気持ちがおさまらなかった橋姫は、更に親類縁者に至るまで皆殺しをしたそうです。
男を殺す時は女の姿となり、女を殺す時は男の姿となり、次々と血を絶やしていったそうです。それを京中の皆の衆が恐れおののき、夕方になれば人っ子一人居ない状態になったそうです。
この話と陰陽道の藁人形が結び付き、丑の刻参りのスタイルが確立したのではないか?ともいわれております。
しかし、この丑の刻参りですが、実行する方は絶対にその姿を誰にも見られてはならないそうです。
もし誰かに見られたり、呪術をしていることが知られると、呪い返しで自分が死ぬことになるそうです。また、見た方にも災いが被るとも言い伝えられております。
さて、視えない世界を感じる猫丸が、猫丸的霊界の解説を致しますと、呪い殺したい程の人の怨念は、実際相手に届く前に我が身に降りかかることの方が断然多いと思います。(猫丸のブログ カテゴリ心霊で「不思議な話」に猫丸の生い立ちを書いております)
当事者が人を恨んでしまうだけの経緯は、人それぞれに辛く悲しい壮絶な想いを経て、丑の刻参りにまで辿り着いてしまうほどの人の恨みです。
丑の刻参りが盛んに行われていた時代というのは、現代のように自由がない時代です。好き勝手な事が許されない時代であり、鬱積する感情のはけ口となったのでしょう。
田舎などでは人間関係による捻れた付き合いが日常の中でイジメと化したり、離れられない関係の嫁姑問題などは相当に苦しかった筈です。
その気持ちの発散として、やり場のない恨みを自然界の中で浄化させていたようにも感じます。それだけの壮絶な怨恨が1日や2日で簡単に成就するはずもありません。
橋姫のように7日間も神社にこもり、21日間も水に浸かればこその成就であった可能性もありますが、それこそ現代これだけ人の多い中で、誰にも見られず呪詛をやってのける場所もほぼ無いかもしれません。
人を殺したいほどの強い想いは念と化し、殺伐とした想いが自分を苦しめます。
その為、我が身の方が重い病気になったり、災難が続いたり、精神を病んでしまう可能性があります。
現実の呪詛は相当のリスクがあるわけです。
人を恨んで効力がないかといえばそうではありません。
人を恨む気持ちは生き霊として現実に相手の元に辿り着きます。
しかし、そこには8割が自分に、後の2割が相手にという配分で怨念の作用があります(人によりけりですが…)
実際は呪う側に呪詛が還ることになります。
呪詛が我が身に降りかかる事の方が断然多いのです。
こんなにリスクの高い呪詛だということを普通の人は知りません。
出来ればスッパリとその怨念を捨て去り、新たな人生を送る方が断然良い形になります。
人を呪うなど、自分を苦しめるリスクしかありません。
自分の人生を狂わせてしまうことなのです。
スッパリと諦められた場合、恨んでた側へのリスク(因果)は消滅しますが、逆に相手への呪だけは存在したまま、相手を確実に苦しめます。
それは恨まれる側に与えられた因果が残る為、相手が苦しむ立場になるのです。
人に恨まれるような事をした人は、結局恨みの念から逃れられないということです。
ならば、その2割で手を打ち、新たな人生に想いをかける方が断然得です。
但し、何度も書きますが、それは自分の人生の為にきれいサッパリ恨みを捨てることが条件なのです。
これが因果の応報を受けない霊界側の真実なんです。
恨む側は相当なリスクがあると心得なければなりません。
相当なリスクを背負っても、どんなに呪ってもその成就は2割程度です。
あとは我が身に還るのが呪詛の怖いところなのです。
「人を呪わば穴二つ」という諺のままなのです。
「敵を滅する」…という呪術があります。
あるご家族の娘さんが学校でイジメにあっていて、何とか改善したいと相談されたことがありました。
お子さんが受けるイジメは相当酷いもので、暴力に発展しており毎日どこかにアザを作って帰ってくるという話でした。
なんとかならないか…と考えていると、「敵を滅する」という呪詛があることを知りました。問題が切実で「親子共々死んでしまいたい」と嘆かれておりましたので、実際にその呪詛を試して見る決意をしました。その結果は、驚くほど早く出て(4日くらいだったと記憶してます)「虐める相手が変わり虐められなくなった」という形となりました。
イジメをしていたボスが「ごめんね」とお子さんに謝ってきてくれた…と報告をしに来てくれました。親御さんもお子さんも安心し、とても嬉しそうでした。
見かけはイジメが改善された状態となり成功したように見えましたが、暫くするとトンデモナイ事態に急変したのです。その結果というのが、何ともアンビリバボーなんですけど、なんと立場が逆転してしまったんです!
どういうことか?と申しますとね、虐められてた側の娘さんが、虐める側に回ってしまった…ということになっちゃったんです。
彼女はイジメが改善されたことで、数年間の恨みを今度は晴らす側に立った訳です。
本当に人の想いの深さと怖さを思い知るいいキッカケになり、いい勉強になりましたけど、本当人間が1番に怖いです。
立場が逆転すると、相手と同じことをしてしまう因果は、その人がその立場に立つ応報があるのだと実感した次第です。まさに因縁ですね…。
イジメられるには、やはりイジメられるだけの因果があるようで、因果の応報がなければ虐める側に回ってしまう…ということなのでしょうか。
虐められることで、虐めないように仕組まれているのかもしれません。
やられた立場に立たされた…ということでしょうか。
なので みなさま、人に恨まれるようなことなどは、決してしてはなりませんょ!
そして、恨みを募らせる人は、その恨む人間への想いを思い切って全てを捨てることがいにしえから持ち越された因果の浄化となります。
現代にまで持ち越される因果の浄化の役割が、そのイジメられる方や、イジメられる側にあるということです。
人間の理屈でどんなに考えても改善されないのがこの世の理屈です。
霊界の理屈は、どんなに不条理で納得いかない事であっても人を赦(ゆる)すことしかないのです。
そのためにこの世に生まれてきた…といっても過言ではないからです。
人を恨めば自分の人生が苦しくなるというリスクを背負うことが因果の浄化です。
人を恨まないよう仕組まれ仕向けられて因果の浄化を図るのが霊界の法則なのです。
相手を赦すことは自分の因果の最大級の浄化であり、引いては先祖からの想いや前世の自分の想いの浄化となるのですが、これは本当に人間にとれば1番難しい作業でしょう。
だって、恨みが募るほどの事をされた人を赦すんですから、難しくない訳がありません。
現実、人から酷い仕打ちをされた人々からとれば、人を赦すことはかなり難しい話です…。
先ほど書いたお子さんに十分な説明をしていなかったから…とも思いまして
後日、きちんと何度も話をして理解してもらえるよう努めました。
何度か話をする内に自分の行いを反省できたようです。
結果、彼女が友達を虐めることもなくなり、ようやく一件落着となりました。
先程の「敵を滅する呪詛」が、御神霊様の意識にかかれば相手の想いの悪を浄化し、悪を滅する形となったことも凄いことです。
人間自体を滅する形になれば、猫丸も無事では済まなかったかもしれません。
穴二つどころか、関わったことで穴が三つになった可能性もあるわけでして…(^_^;)
御神霊様の力を思い知った瞬間でしたね。
猫丸の過去には、壮絶な体験談が山ほどあります。
実際、猫丸の人生は波瀾万丈すぎて本が書けるほどです(^_^;)
こうして みなさまにお話する為に過去に壮絶な経験をさせて貰えたとも言えます。
自分の選ぶ選択肢なら、わざわざ辛い思いをする道は選びませんもん。
そのため究極の地獄も見てきましたが、天国という立場も沢山経験させて貰えました。
地獄に落ちても直ぐに天国のような環境下に変わっていけるのは、それは猫丸の意識がどんな状況下であろうとも「人を恨めなかった」からなのだと思います。
この経験を活かし、人や自分を恨んで辛い人生を送る方々の意識改善のお手伝いできたら…と思います。
猫丸も御神霊様の存在がなければ人も自分のことも恨んでいたと思います。
神は存在しますが、なかなか力のある御神霊様はおられません。
ここで書く「力がある」とは、人間を想い味方する神のことです。
神様もよりけりで、人に味方する神もいれば、ただ存在する神もおられます。
人に味方する神であっても、人を救うだけの力のない神もおられます。
人に味方し、その上救う力のある人間に取り都合の良い神などおりませんが、
そんな力のある御神霊様がこの地球上でほんの一握りだけ確実に存在しております。
猫丸は生まれた時より、視えない存在と関わり人の立場に立って考えさせられる経験値を与えられて学び、その都度試練を乗り越えてきました。
トラちゃん占いは単なる占いではありません。そんな力のある御神霊様の息がかかった占いです。みなさまにも御神霊様の意識に触れることができます。
必要な人が見てタイムリーに救われる道があります。
また、助かりたいと本気で願う人にしか作用しません。
それは、自分を救えるのは自分の選択肢だけだからです。
凡(およ)そ自分が選択しない事を実行するだけで、どれほど人生に有益なのかをご自身で体験し検証することが、この世では大切な事の一つだと思います。
自分が変われないのは、同じ選択肢しかしていないからです。
人は辛い時しか深く考えません。そして辛い時でないと人からのアドバイスも心底聞けません。辛い経験値がなければ人の痛みを理解して差し上げることは不可能です。
人の痛みを理解出来ない人は、人との心の繋がりは作れません。
辛い時こそが何かのヒントを得る最大のチャンスだということです。
先ずは、自分を救い出すことができれば、人との心の繋がりは可能です。
人との心の繋がりがあれば、決して孤独にはなりません。
孤独にさえならなければ、人は頑張って生きて行けます。
自分の選択に覚悟をして臨み、毎日の経験値で少しずつ軌道修正をして行くのが正しい人生の歩み方だと思います。
和泉式部さんの話に戻りますが、彼女は恋しさに思い悩んだ時に歌を詠みましたたが、これには話の続きがあるのです。
不思議なことに社殿から歌が返ってきたそうです。
「奥山に たぎりておつる滝つ瀬の たまちる許り 物な思ひそ」
奥山にしぶきをあげて飛び散って消えてしまう滝の水玉のように、そんなに思い詰めてはいけませんよ…と。
それは貴船明神の声であったそうです。
彼女は危うく我が身を鬼に変えてしまうところを、この歌により善に目覚めたといいます。すると、暫らくして夫の心が無事に彼女に戻ってきたのだそうです。
これが本当の式部の恋の逸話です。
誰しも何事かあれば心に闇を纏わせてしまいます。
それをそのままにするのか、又は取り払うのかは自分の選択肢。
どんなに良きアドバイスを聞いても、聞き取るも聞き流すも自分の選択。
式部の場合、式部が貴船明神の言葉を素直に聞けたからこその成果でしょう。
みなさまも何事か重大なことがあったその時、自分の中の本当の素直な声を訊いてください。
素直になることで幸せになる為の選択の鍵がきっと見つかる筈です。
ほな(・ω・)ノ