京都のデートスポットといえば鴨川。
冬でも結構な数のカップルさんが集まり、ここ鴨川では奇妙な風景がみられます。
写真はを撮った時は朝早い時間でったのでカップルさんもいませんでしたが、普段はある一定の同じ位の距離をあけて座っています。

今はネットの力で知っている人も多いいと思いますが、ここ三条河原はかつては歴史上の有名人が処刑された処刑場でありました。
処刑された後の遺体は、首が落とされこの橋に「晒し首:さらしくび」にされ、晒されたという曰く付きの河原なのです。
かつて処刑が行われた時代は、この川は多くの犯罪者の血で赤く染まっていたのだそうです。
そんな、いにしえの風景は現在どこにも想像させる要素もない、きれいで穏やかな風景が広がっております。
歴史を調べてみますと、六条河原の方が古くから刑場として使用されていたようです。
六条河原は、時の政治犯が多く処刑された場所です。
三条河原は、豊臣秀吉の息子である秀次切腹後に、その一族一党が処刑され埋葬された場所です。
昔から三条河原も六条河原にも大きな橋が掛けられ、とても交通量の多い場所でしたから、往来の多いこの橋で、処刑された政治犯は見せしめとして晒し首にされたそうです。
この時代の日本では、公開処刑が普通でたくさんの人々が晒された首を見物に集まり、切り落とされた首が晒されると、こぞって見にきたのだそうです…(・_・;
どの時代に行われる公開処刑も、国を問わず同じような感覚なのでしょうか。
人が殺害される場面をわざわざ見に行くなんて、しかも子供まで連れて見に来ている人もいたそうで、現代人の感覚にはないものです。
時代によりけりなのでしょうか。
結局、怖いもの見たさ…なのでしょうね。
1595年8月2日の午後、ここ三条河原で罪なき女性や子供30余名が惨殺されるという歴史史上、類稀(まぐいまれ)なる凄惨極まる処刑が行われました。
ここで殺された30余名の者たちは、前関白豊臣秀吉の妻妾とその子供達です。
この処刑を命じたのは豊臣秀吉でした。
秀吉は長らく子供に恵まれず、側室淀君に出来た鶴松が幼くして亡くなると、彼は我が子の誕生を諦め、姉の子である三好秀次を養子にし、秀吉の後継者としました。
秀吉は朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、1591年にその職を秀次に譲ります。
天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗(ごうそうかれい)な聚楽第(じゅらくだい:京都に造営した邸宅のこと)を与えられ、ここで暮らしつつ政務に関わりました。
文禄2年8月に、淀君はまた新たな子を生み、その子が男の子だった為に、秀吉は秀次を後継者に据えたことを悔やみました。
この頃、秀次の行動にも問題があり、上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人で試し斬りするなどして、関白としてあるまじき振る舞いを行っていました。
秀次のこの態度が咎(とが)められ、太閤(たいこう)に対する謀反(むほん)の疑いもかけられ、これにより官職剥奪(かんしょくはくだつ)高野山追放、ついには切腹も命じられ切腹しました。
秀次の側近ら10名ほどが追い腹を切りました。これが1595年7月15日のことです。
豊臣政権の上層部で起きたこの事件は、大名諸候にとり大きな衝撃であり、動揺する大名たちに対して秀吉は、7月20日に愛児秀頼への忠誠を誓わせました。
「お拾い様へ対したてまつり、いささかも裏表なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条を29名の諸候と共に「羽柴出羽侍従」の肩書で、義光も花押血判を為したそうです。その時の書文は岡山市の木下家文書に収められているそうです。
秀吉は秀次を切腹に追い込んで首を取っても、秀吉の気持ちは一向に収まらず、続いて秀次の寵愛(ちょうあい)を受けた女性と彼の血を引く子供達全員の殺害を命じました。
妾たちの中には秀次が切腹したことを知り、急いで髪を下ろして尼になった者もいたそうですが、これらの者も秀吉は許さず、罪なくして斬首の刑に処せられる女子供達の悲嘆はひどく、泣いても嘆いても訴えても、この状況は変わることはなかったのです。
もう、助かる術(すべ)はなかったのです。
8月1日、女性たちは其々に親しい人達に遺書を書きしたため、形見の品を分け整え、沐浴をして身を清め、死出の旅支度をしました。
8月2日、死装束に身を包んだ女性と子供達は市中引き回しの牛車に乗せられました。
またまたこの様子を目撃した岡崎上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録によれば、引き回しは次のように行われたようです。
車は7台、1台目には3人の女性とその子供1〜3歳の幼児3人。
2台目には駒姫と秀次の正室などの4人。以下7台目まで女性31名、幼児3名の合計34名。一条より京の町々を引き回し、三条河原にて御成敗なされ候…と記されています。
太閤記によりますと「間も無く命を断たれる幼き子を哀れに思いその姿に見る人は皆泣いた」といいます。
女性達は三条河原の刑場に追いやられると、そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられたそうです。
刑は正午頃から始まりました。
50歳ぐらいの髭男が幼い若君をまるで犬の子をぶらさげるように扱い、抱きしめる母の膝から幼い若君を奪い取ると、胸元を刀で2刀刺して川に投げ捨てた…と。
桃山時代の優雅といわれた京の都でこのような残虐な処刑が行われたというのです。
幼子が終わると、女性達が次々と処刑されていったそうです。
女性達は騒ぐ者もいたようですが、駒姫などは最後までおしとやかであったそうです。
無駄な足掻きはせず、手を合わせ頸を前に差し伸べたほどだと記されておりました。
駒姫辞世の句は「罪なき身も世の曇りにさへられて、共に冥土に趣かば、五常の罪も滅びなんと思ひて伊満15歳 罪を切る弥陀の剣にかかる身の なにか五つのさわりあるべき」
これは「罪なき私の身も、世間の邪な動きに邪魔されて 皆と共に冥土に行ったならば、五つの徳目に背いた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと極楽浄土にいかれることでしょう」
30余名の処刑は夕刻まで続き、殺された人の血で流れる水が赤く色を変えたほど壮絶な風景に変わっていたそうです。
亡骸は一つ掘られた大きな穴に乱暴に投げ込まれ、築いた塚には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられたそうです。
余りにも壮絶な処刑場面に、見物客は見に来たことを後悔したのだそうです。
後々、人々はこの事件を強く批判したそうです。
夜の内に辻々に貼り紙がなされ、「今日の三条河原での狼藉は無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほどご用心候え」と書かれていたそうです。
その他、この地で処刑された有名人は石川五右衛門です。
豊臣秀吉に反逆した石川五右衛門は、この三条河原で煮え立った油に生きたまま放り込まれるという残酷な処刑法だったといいます。
また、石田三成や新撰組の局長である近藤勇の首も、ここで晒されました。
冒頭で述べたように、この三条河原では奇妙な風景が見られると書きましたが、カップルが同じような間隔をあけて並んでいるんですが、これは霊を避けるために等間隔に座っているのではないか…と噂されているそうです。
ある霊能者は「そこにも、ここにも霊だらけょ。よくこんな場所でイチャつけるもんだ!」と呆れ顔だったそうですけど、猫丸は、そんなことほぼ感じません。
自然界の浄化作用で綺麗なもんです。
ただ、霊能者によっては残留した人の想いを感じることはあるのでしょう。
それほど恐ろしい場所なはずなのに、三条河原には沢山の人が集まるのは不自然です。
人間には第六感も備わっておりますので、本当に嫌な場所には近づけないものです。
もちろん、微小の残留思念を感じる人は、嫌な感じがするかもしれません。
しかし、それは残留思念よりも、自然界から発する磁気とか地場の可能性の確率の方が高いと思います。
なので心霊スポットだからと怖がる必要はありません。
またそれら微小な想いが人に影響を及ぼすこともほぼありません。
気にする方にはある程度の影響を受けるかもしれませんが、それは自分が「影響があるかも?」と思い込む力の為に、起こり得る現象の可能性が高いかも知れません。
霊能者もピンキリです。そして持ち合わせる能力も様々で能力の差もあるでしょう。
悪い想いしか感じられない霊能者の方なら、ここが邪悪な土地になってしまいます。
必要以上に霊的存在を恐れる余り「霊が付いてきてしまう」と思い込んでしまうのかもしれません。
何度も書きますが、そんな危険な場所には人は「なんとなく」近づけません。
霊的な感知能力がないと思い込んでいる方でもこの「なんとなく」という直感が働くものです。
嫌な感覚を無視して立ち入れば、何かしら影響はあるかもしれませんが、それは霊的作用だとは言い切れません。電磁場が強く発生する場所や、反射する場所の可能性もあります。
もう亡くなっている人の霊魂の力は弱く、人に霊的な影響はほぼありません。
逆に生きている人間の生き霊は力を持ちます。亡くなった人の影響など微々たるものです。実際に恐れなくてはいけないのが、生きている人間が発する想いです。
この想いが日常化すると念に変わり、人に悪影響を与えるほどの力を持ちます。
しかし、それは相手ばかりに発揮できるものではなく、自分にも降りかかる呪詛となります。生きている人間にはそれだけの作用を起こせる内在するパワーがありますが、死霊にはほぼありません。
話が逸れてしまいましたが、三条河原は悪霊に支配されているということはありませんので、安心してお出掛けください。
ここ三条河原には数知れない程の人々が処刑された…という歴史があったことを忘れず、現代が平和な世であることを有難くお過ごしください。
ほな(・ω・)ノ